2006年5月号 連載 [硯の海 当世「言の葉」考 第1回]
硯の海。墨をためるくぼみのことだ。筆を執ろうとして硯の海を見つめるとき、人は心を映し出す言葉をさがしている。 正岡子規は「芋の露硯の海に湛えけり」と詠んだ。七夕の短冊に何かを書こうとしたのか、晩年の「何も書かぬ赤短冊や春浅し」のような暗さのない落ち着いた句だ。 明治維新政府初期の財政を担当した由利公正は、幕末の坂本龍馬を追憶し「硯の海に浮かぶ思ひの数々の書き尽くせぬは涙なりけり」という短歌を残した。 駄文をものすことを生業にして40年近い歳月が過ぎた。ひたすら馬齢を重ね、老いを実感する日々である。だが気力だけは衰えていないつもりなので、心を平らかにして、硯に向かうことにする。 金沢へ行くと、きまって訪れる場所がある。もう何年ぐらいになるだろうか。一度も観光客に出会ったことのないその寺で、苔むした墓に手を合わせると、ああ、自分はまだ生きて ………
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