無名の首相抜擢で、大統領後継レースに波乱。次期政権を傀儡化して君臨する前触れか。
2007年11月号 GLOBAL
モスクワの空の玄関口、シェレメーチェボ空港に降り立つと、肌寒さに思わず震えた。約10時間前、飛び立った成田に比べ、20度以上の温度差があったからだ。車でモスクワの都心に向かう途中、文面が同じ看板がやたら多いのに気がついた。そこには「プーチンの計画はロシアの勝利」と書いてあった。よく見ると、看板の隅に政権与党「統一ロシア」のマークが入っていた。12月2日に行われる下院選挙用の看板だ。ロシアはすでに、来年3月の大統領選まで続く「選挙の季節」に突入していることを思い知らされた。
「金融監督庁長官から新首相になったズプコフ氏とはいったい何者?」
「プーチン大統領の意中の後継者か、それとも首相止まりの人物なのか」
モスクワで政治評論家や学者に面会すると、ウラジーミル・プーチン大統領(55)が9月12日、首相に指名し、下院で承認されたビクトル・ズプコフ氏(66)の話題で持ちきり。クレムリン・ウオッチャーの多くが、ついこの間まで「大統領後継者はセルゲイ・イワノフ第一副首相で決まり」と断言していただけに、無名の人物が突如大統領レースに浮上したことに戸惑っている様子だ。
マスコミの多くも「イワノフ後継説」を信じて疑わず、経済紙「ベードムストボ」(省庁の総称)がズプコフ氏指名の当日の朝刊で「きょう内閣改造、イワノフ氏首相に」の大誤報を掲載していた。大統領府サイドのリークを早とちりした可能性が強いが、イワノフ氏後継の芽を摘もうとしたという意図的リーク説も流れている。
プーチン大統領がミハイル・フラトコフ首相を解任して新首相を指名するとの予想は以前からあった。プーチン氏自身、故ボリス・エリツィン大統領から大統領選7カ月前の1999年8月、突然首相に指名され、後継者として大統領選に立候補、当選している。首相は万が一のときは大統領職を代行すると憲法で定められている。意中の人を首相に据えて大統領選に立候補させれば、大統領の権威が高いロシアでは当選はほぼ間違いなしだ。
では、なぜ無名のズプコフ氏が首相に指名されたのだろうか。保守派の論客として知られるベルコフスキー国家戦略研究所所長は、後継者に求められている条件として、①大統領と精神的依存関係にある(決して裏切らない)、②政治的野心がない、③政治的エリートの同意が得られる(敵が少ない)、④大統領と比較されるような共通点がない――の四つをあげ、ズプコフ氏はこの4条件を満たしていると明言した。
また、プーチン政権に批判的なラジオ放送局「エホ・モスクブイ」(モスクワのこだま)のベネディクトフ編集長は「大統領は最近、無名の人物で90年代にサンクトペテルブルクで一緒に仕事をした人だけを要職に就けている。プーチン・チームの中にはいくつもの派閥があるが、どの派閥にも属していない人物を選んだのだろう」と語る。
ズプコフ氏はロシア中部の生まれで、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の大学を卒業。92年から同市の市役所対外交流委員長だったプーチン氏の直属の部下として勤務し、認められたという。
だが、無名の新首相指名はプーチン劇場の第1幕にすぎなかった。
約2週間後の10月1日、クレムリンの隣で開かれた政権与党「統一ロシア」の党大会で第2幕が始まったのだ。この大会には全国から代議員約500人が出席した。
この党はプーチン政権を支持する与党であることは明らかだが、大統領はこれまで一度も党大会に出席せず、距離をおいていた。エリツィン初代ロシア大統領と同様、政党を超越した姿勢をとっていたのだ。ところが、プーチン大統領は今年初め、「統一ロシア」の創立者の一人であることを明らかにし、政党に関与する意向を示唆していた。
ロシア有力紙「コメルサント」によると、党大会で大統領が演説すると、代議員が次々に演壇に上がり「来年以降も大統領として残ってほしい」「首相に就任して」「わが党の党首になってほしい」と提案、全員総立ちで大統領に続投を迫った。
再び演壇に登った大統領は「首相になるというのは現実的な提案だが、検討するのはまだ早い」と述べ、下院選で「統一ロシア」が勝利し、大統領選で一緒に働ける、まじめで行動力のある人物が選ばれるというのが条件だと語った。さらに、大統領は党首就任について「大多数の国民同様、非党員の立場を変えるつもりはない」と言いながら「統一ロシア」の候補者名簿のトップに名前を載せることを了承した。これは事実上、大統領が党首になるのと同じ効果を持つといえる。
この大統領発言は、次期政権では自らが首相になってプーチン体制を維持し、次々回の大統領選に再登板することを宣言したものだ。この発言と、自分より11歳も年上のズプコフ氏を首相に指名したことを重ね合わせると、プーチン大統領の戦略がはっきり浮かび上がってくる。
この戦略は、大統領の任期を連続2期までと定めた憲法を遵守しながら、プーチン体制を維持しようという発想から生まれている。形式的に憲法を守ることで欧米の批判をはねつけ、実際には政権を継続する狙いであることは明らかだ。さらに、大統領が与党を直接引っ張ることで下院選に圧勝し、憲法改正に必要な3分の2以上の議席を確保する狙いもある。そうなれば、大統領任期(1期4年)が短すぎると発言しているプーチン氏は任期を5年あるいは7年に延長することも可能だ。
では、ロシア国民は大統領の決定をどう受け止めているのか。ある世論調査機関の調査結果では、プーチン大統領が「統一ロシア」党首になれば57%の人が同党に投票すると回答、投票しないと回答した人は24%、「まだ決めていない」は19%だった。国民の大勢は、政治の安定を最優先し、大統領がそれを守ってくれる限り支持する傾向が強い。
プーチン大統領はソ連崩壊後、ロシアの地位が低下した90年代を「屈辱の時代」と表現、「大国ロシアの復活」をスローガンに掲げてきた。運よく原油高騰の流れに乗ってロシアは好景気が続き、ソ連時代の対外債務を返済、外貨準備高が世界第3位になるほど復活した。こうした中でロシアはいま大国主義、ナショナリズムの一種の興奮状態にある。
欧米はソ連崩壊後、ロシアの民主化、市場経済への移行を支援してきたが、ロシアが横道にそれたため「民主主義の後退だ」「エネルギー資源を悪用して欧米に圧力をかけている」などと批判、関係が冷却化している。大統領が今回の発言どおりプーチン体制を温存し、事実上3期連続して統治することになれば、国際社会から強権主義を背景に「プーチン王朝」を樹立しようとしているとの批判が強まるのは必至だ。