軍事記者が見た「守屋前次官」

2007年12月号 連載 [「軍略」探照灯 第20回]
by 田岡俊次(軍事ジャーナリスト)

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本誌6月号『防衛省震撼「山田洋行」の闇』と9月号『「防衛省の天皇」解任の裏側』は出色の記事だった。長年防衛庁・省のウオッチャーとして、山田洋行暗躍の風聞を聞くことが少なくなかった私にとっても、「なるほどそうか、これなら話がつながる」と教えられた点が少なくなかった。経済・企業関係の練達の記者の手になると思えるこの記事は、軍事記者の側から見ると微細な点で疑問もなくはないが(例えば「次期輸送機CXの配備数は50機、双発だからエンジン100基」とあるが、予備エンジンも必要だ。「エンジン100基」は正しいが、CXは1機当たり3基が必要で30余機が当面の配備予定数だ)本質にかかわる話では全くなく、取材の広さと深さに感嘆した。

守屋武昌・前防衛次官とは、彼が運用課長をしていた1988年頃からの知り合いで、その後航空機課長、次いで広報課長になったから、顔を合わすことは多かったが、彼は海外の軍事情勢や装備、軍事史などについて詳しくなく、私とは話が弾むことはなかった。軍事問題に特に関心があって防衛庁に入ったわけではないようだ、と感じていた。

「政府委員制度」廃止の弊害

だが彼を見直したのは95年1月、阪神・淡路大震災の日のことだ。以前からその日に彼と会うことにしていて、六本木の防衛庁の防衛政策課長室を訪れたところ、秘書が「課長は次官室に行って、まだ戻りません。遅れそうなので部屋に入ってお待ち下さるように、と承っています」と言う。しばらくして部屋に戻ってきた彼は「いまテレビで報じられているような少ない数の死者ではないはずです。兵庫県知事が要請しようが否が、すぐに自衛隊を投入し、全国から大量動員する必要があります」と激しい口調で言う。私は全く同意しつつも、なぜ私に噛みつくのかいぶかしく思ったが、無能な事務次官が自衛隊の投入をためらうため怒鳴り合いになり、自室へ戻っても興奮冷めやらず、私に憤懣をぶつけたと分かって苦笑した。次官を怒鳴るような課長は稀で、判断も良くなかなか豪胆ではないか、と感心した。

彼は東北大法学部を出たのち日通に勤務し、26歳で防衛庁に入ったから、秀才肌の官僚ではないが、彼の父は戦前内務省社会部長から衆議院議員になり、宮城県塩竃(しおがま)市長も務め、彼も政治家の家庭に育っただけに、政治家的能力があった。

政策の決定権が徐々に官僚の手から政治家に移った90年代には、官僚も法律論や先例をひねくり回していては務まらなくなり、各省庁に近い「族議員」や与党の有力者に食い込んで、予算、法案や計画への支持を得る政治手腕が以前にまして重要になっていた。

また国会の委員会では局長級の官僚が大臣に代わって答弁する政府委員制度が99年から廃止され、官僚が『政府参考人』として答弁に立つことは例外的になったから、官僚はさほど実務に通暁せずとも、あるいは、見識や論理性を若干欠いていてもボロを出さず、局長が務まるという皮肉な結果を生じた。かつての局長らは自分が委員会で質問の矢面に立ったから、政策を考えたり、法案を起案する際にも「どこかに隙はないか」「弊害を突かれることはないか」と真剣で、夜まで部下を集めて討論していた。多角的に検討するために私にも「お暇なら来て頂けませんか」と声が掛かり論議に加わることもあった。だが今日ではそういう光景は防衛省だけでなく他の省庁でも減ったらしい。経済産業省が危険防止のため中古家庭電器製品の販売を規制する法案を作り、成立したのち、古い楽器やオーディオ機材の売買ができない問題が発生し、対処に苦しんだのはその一例だ。法案作成前に衆智を集めて問題点の発見に努めていれば、誰かが気づいたはずだ。政府委員制度の廃止は大臣、副大臣等の選択基準の向上に資した半面、官僚の質の低下をもたらしたようだ。

政治家優位の状況下では官僚の仕事の中で「根回し」のほうが比重を高めることになる。官僚が得意とする法律論では議員の多くを味方にするのは難しい。守屋氏の一見朴訥、磊落な語り口が、「防衛庁営業部長」的な仕事に適していたことが、彼が次官になり、4年間もその職にとどまり、対立した小池百合子大臣のほうが事実上更迭されたような実力を持つことになった主因だろう。

本誌6、9月号ですでに述べられているとおり、山田洋行専務だった宮崎元伸氏が、航空幕僚監部の装備部長や、航空自衛隊幹部学校長をつとめた田村秀昭空将に食い込んでいたことは知られていた。田村空将は防衛大の1期生で、任官後京都大学の大学院に内地留学し工学博士号も得た。航空自衛隊技術系幹部(士官)たちの領袖だから装備選定などへの影響力はあったはずで、田村空将が退官後89年に参議院に立候補した際、山田洋行の宮崎氏が後援者と聞いて眉をひそめた人も少なくなかった。当選後田村氏は当時自民党幹事長だった小沢一郎氏の「2番機」のように、新生党―新進党―自由党―民主党と行動を共にしたが、2005年に国民新党に参加、今年の参院選には出馬しなかった。小沢氏の政治団体へ600万円の政治献金が山田洋行から出ていて、10月に返却された。

「三位一体」の癒着構造

守屋氏にとっては防衛庁出身で一時は有力な族議員だった田村秀昭参議院議員と、その後援者である宮崎元伸氏との親交は職務上も、自分の昇進のためにも重要だったろう。彼が宮崎氏と200回以上もゴルフをしたり、頻繁に接待を受けたというのも、商社が役人を接待、という単純な構図ではなく、商社が政治家と役人の仲を取り持ったり、役人が政治家に食い込むため商社に一席設けさせたり、商社に頼んで海外で政治家の世話をさせて点を稼ぐ、といった「三位一体」の癒着構造が生じていることに目を向けねばなるまい。またそうした政治的「営業活動」を続けるには周囲を秘密を共にする腹心で固める必要も生じるだろう。

さらに大きな問題としては制服幹部の防衛産業、商社への天下りがある。一般の公務員は退職後2年間は職務に関連した企業に就職できないが、自衛官は「若年定年制」(1佐56歳、2、3佐55歳、尉官54歳)があるため「公務の公正性の確保に支障がない」と大臣が認めれば就職を許している。これを60歳定年の将官が利用し、退官後、直接防衛産業の顧問となる。元上官に招かれれば後輩の現役幹部は断れず、計画の現状を報告することになりがちだ。上級幹部のほぼ全員が防衛大卒で、一般の役所や企業よりも先輩、後輩の関係が濃い「体育会的」な自衛隊では、天下りは強度の癒着を生じ、重大な不祥事を起こしかねない。

一方、本当に若年定年を強いられる多数の幹部(将校)や曹(下士官)は将官が甘い汁を吸うことに冷たい目を向けているから、部隊の規律、団結に影響する。退役直後の関連企業への再就職は若年定年制を適用される人々に限ることが必要だろう。

著者プロフィール
田岡俊次

田岡俊次(たおか・しゅんじ)

軍事ジャーナリスト

1964年早稲田大学卒。朝日新聞社防衛庁担当記者、編集委員、ストックホルム国際平和問題研究所客員研究員、筑波大学客員教授などを経て、現在CSTV朝日ニュースター・コメンテーター。

   

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