2008年3月号 連載 [手嶋龍一式INTELLIGENCE 第23回]
男の額にはうっすらと脂汗が浮かび上がっていた。だが、誰もそれに気づいていない。それほどに緊迫した会談だった。豪胆をもって鳴るこの男も、決裂の危機を孕んだ交渉に臨んで苦しんでいる――。たとえ折衝の相手が、額の汗に眼をとめたとしても、そう受け取っただろう。じつは重いヘルペスを患っていたのである。北京の主治医が制するのを振り切って、成田行きの便に飛び乗っている。靖国参拝をめぐって日中関係が暗礁に乗り上げているさなかの会談である。並の交渉者なら、病に罹(かか)っていることを漏らして、わずかな譲歩でも引き出したいという誘惑に駆られたはずだ。だが男は眉ひとつ動かさず、日本側に何ひとつ気取らせなかった。この人こそ「東アジアの外交界に戴秉国(たいへいこく)あり」といわれた逸材だった。中国外務省の筆頭次官にして、中国共産党の中央外事弁公室主任。その組み合わ ………
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