豊臣秀長<下>

良将に非ざれば鎮撫し難し

2008年4月号 連載 [第二の男]

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秀吉の累進に伴い、秀長もまた歴史の表舞台に登場し、優れた武将ぶりを発揮していく。織田信長は、毛利攻略・中国平定に秀吉を起用し、加賀攻めや松永久秀攻めにもこき使う。天正5(1577)年、秀吉は秀長とともに但馬の岩淵、竹田の各城を落とす。秀長は竹田城の城代、同8年には但馬平定の功で出石城主となった。同6年、別所長治が毛利に通じ反旗を翻したのは秀吉の誤算。籠城戦は2年半におよび、長治の切腹で決着した。播磨別所記の合戦模様に「羽柴小一郎秀長、秀吉に越されずと、そのまま、槍(やり)を入るるを見て、秀吉続いて込み懸かり(略)、(別所)山城、名馬に乗りて逃げ延びる」とある。天晴れな武者ぶりだ。天正9年、秀吉は2万余の大軍で吉川経家の鳥取城を攻めた。城内を生き地獄にした兵糧攻めは、経家が切腹して開城。天正10年、次の目標の備中高松城を水攻めした6月、本能寺の変で信 ………

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