株と女の「口説き魔」西田晴夫ついに死す

2011年6月号 DEEP

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「最後の仕手筋」と呼ばれた相場師、西田晴夫が誰にも看取られることなくひっそりと息を引き取った。

61歳の誕生日を目前にした3月4日のことだった。

西田は、株式市場ではすでに死語となった「相場師」という呼称が最も似合った最後の男だった。

西田の手がける銘柄は「西田銘柄」「N銘柄」と株式関係者の間で呼ばれ、西田が絡んでいるという噂が立つだけで株価は高騰。相乗りする投資家たちのチョウチン買いで、一段と値がはずむという具合だった。

さながらジェットコースターのように株価を動かしてみせる西田のマジックは、株式関係者の間ではヒーロー視され、その一挙手一投足が常に注目されていた。

ITバブル真っただなか、西田銘柄として一世を風靡したのが「宝林」。後に社名を「ジャパン・オークションシステム」、さらに「サハダイヤモンド」と変えるたびに仕手銘柄となるが、わずか一株数十円でイスラエル人投資家から「宝林」株800万株を手に入れた西田は、私募CB(転換社債)を発行するなどの手口で株価を吊り上げ、最終的には2500円を超える大相場を演出してみせた。西田の最高傑作と言われる所以である。

シルバー精工、アイビーダイワ、ボディソニック、キムラタン、YOZAN、クオンツ……西田が手掛けた銘柄は枚挙にいとまない。

暴力団からの資金も相場につぎ込むなど、危険な綱渡りをしながらも塀の中になかなか落ちなかった西田が、大阪地検特捜部に逮捕されたのは2007年10月12日。容疑は南野建設(現A・Cホールディングス)株による相場操縦だった。

公判の最中、持病の糖尿病を悪化させた西田は脳梗塞を併発し、この2年間は植物状態だった。

江戸時代から続く大阪府守口市の豪農の三男として生まれた西田は、もともと地元の守口市役所につとめる一介の役人だった。

株の世界に入るきっかけとなったのは、最初の妻が癌になり、その治療費や入院費を稼ぐためだったという。

ところが、西田が買った銘柄が次々と高値をつけることが話題になった。西田の言葉を借りると、「いつのまにか、推奨銘柄のレポートを書いていました」とのめりこみ、そこから西田の株人生が始まった。

かつて西田の側近で、西田とともに相場を張っていた人々が口をそろえて言う。西田ほど株が好きだった男はほかに知らない、と。

そして、いつの時代も相場師が様々なエピソードで飾られるように、西田もいくつも伝説を残した。

まだ携帯電話が存在しない時代、新幹線による移動ともなれば、西田の手には厚さ5センチにもなるテレホンカードの束が握られていたという。東京から新大阪に着くまで電話をかけっぱなし。それは西田にとって当たり前のことだった。

西田の手がける銘柄に相手が投資すると言うまで、何時間であろうと電話で説得をつづけ、必ず口説き落とした。一時は電話のかけ過ぎで、中耳にパチンコ玉ほどの血種ができたくらいである。

だが、当局の追跡を恐れて、極端に痕跡を残すことを嫌った西田は、現金しか信じない男だった。銀行の口座名義はすべて側近のもの、ホテルの宿泊もすべて偽名だった。一度などはその偽名を忘れ、ホテルのフロントで「僕はなんという名前でしたか?」と聞くことさえあった。

それでも記憶力は抜群で、数年前の特定銘柄の株価をそらんじていて、顧客の電話番号も200件以上は暗記しているという「歩くアドレスブック」みたいな男だった。それもこれも、すべては株のためである。

そんな西田だが、株と同じように女にも目がなかった。酒場で気に入った女に目をつけると、その場で「愛人になってくれ」と迫る。カネの力にものを言わせて首を縦に振らせるや、気前よくマンションを買い与え、法外な生活費を手渡した。西田の顔は喜劇役者、故藤山寛美似と言われたが、女の前では白のスーツに真っ赤なシャツを好んで着た。

最後の仕手筋の末路――西田の遺骸を親族は引き取らなかった。荼毘に付し、大阪のある墓地に葬ったのは数人の投資家だった。(敬称略)

   

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