大陸へ行くか辞めるか
2011年12月号 連載 [日記逍遥 第35回]
「見る物、聞くものすべて悲惨であった。薄曇りの中に神戸市街は各所に余燼の煙が立ち上り、軽気球が上ってゐた…死の港のやうであった」(昭和20年3月21日)元朝日新聞記者で、南京政府経済顧問の太田宇之助は、1年ぶりに帰国したときの様子をそう記している。翌々日には杉並の自宅に戻る。「なつかしい久我山の家に帰った。昔のまゝの門前の風景、たゞ〳〵嬉しい」(3月23日)太田はこの後、銀座や浅草に足を運んで惨状を見て回り、それから庭に畑を作り始める。ついで信州に出かけて疎開候補地を確認し、長女の就職もあり、久我山に止まることにする。それからである。太田日記の痛々しいまでの苦悩が始まるのは。太田宇之助は、明治24年に現在の姫路市に生まれている。三高から早稲田へと進み、在学中の大正5年には王統一の秘書として大陸に渡り、孫文の第三革命に加わるものの、軍艦奪取に失敗して ………
オンラインサービスをご利用いただくには会員認証が必要です。
IDとパスワードをご入力のうえ、ログインしてください。
FACTA onlineは購読者限定のオンライン会員サービス(無料)です。年間定期購読をご契約の方は「最新号含む過去12号分の記事全文」を閲覧いただけます。オンライン会員登録がお済みでない方はこちらからお手続きください(※オンライン会員サービスの詳細はこちらをご覧ください)。