草川 昭三 氏
参議院議員
2013年8月号
POLITICS [インタビュー]
インタビュアー 本誌 宮嶋巌
1928年名古屋市生まれ(84歳)。名古屋市立第一工業学校卒業。石川島播磨重工業(現IHI)労組幹部を経て、76年衆院初当選(無所属・公明党推薦。連続8回当選)。01年72歳で参院初当選(2回当選)。公明党参院議員会長、参院法務委員長などを歴任。
写真/平尾秀明
――5月15日の参院予算委で、電力供給のありがたみを切々と訴えましたね。
草川 終戦の昭和20年、勤労学徒として航空機工場で働いていました。米軍の爆撃が繰り返され、目の前で何人かの学生が亡くなりました。8月15日の夜、灯火管制が解除され、電灯の覆いを外した。その眩しかったこと。ああ、これが平和の灯だ。その光景が身に沁みた私は、資源小国の日本の発展には、何よりエネルギーが大切だと訴え続けてきました。
――ご自身のことを、屋外労働を経験した最後の議会人だと仰っていますね。
草川 終戦直後は栄養失調でした。「白米支給」の求人に飛びつき、石川島播磨重工業(現IHI)の溶接工になった。当時、人手不足の造船所には、刑務所の受刑者が動員されていました。事故多発で3千トン級の貨物船を建造するたびに職工が命を落としていました。
――24歳で造船所の労組書記長となり、39歳の時に社会党公認で衆院選に初挑戦したが落選。非創価学会員でありながら、48歳で公明党推薦の無所属として初当選し、公明党・国民会議に所属しました。
草川 労組委員長時代の団交の相手は石播社長の土光敏夫さん(後に経団連会長)でした。その持論は「生産第一と安全第一は両立する」。反論すると、机を叩いてどやされた。怖かったけれど鍛えられましたね。世界史を紐解くと造船所で大争議が起こっています。どこも地獄のような労働環境だったのです。
選挙活動には江田三郎さん(元社会党書記長)が駆けつけ、土光さんも推薦人になってくれました。私は現場の叩き上げだから、働く環境の改善のために、何としても国会で頑張ろうと思った。最近は候補者を公募する政党があるが理解できません。一途な志を持つ人が国政を目指して這い上がって来るのが、国会議員のあるべき姿ではないでしょうか。
――忘れられない国会の修羅場は?
草川 国論を二分した国連の平和維持活動(PKO)協力法が成立したのは21年前。当時、私は野党(公明党)の理事として特別委員会の採決を主導しました。私が自民党理事の優柔不断を怒鳴り上げ、国対委員長の梶山(静六)さんが「野党の理事を怒らせるな!」と一喝して、採決に向かった日のことを、今でも鮮明に覚えています。この時、公明党は「一国平和主義」と訣別し、国際社会の中で戦後日本の新しい生き方を開く同法制定の推進役を果たした。今では自衛隊のPKO参加を支持する国民が9割。これは平成政治史に残る、公明党の誇るべき実績です。さらに、日本の国際貢献の柱となるPKO法制定を、自民党と共に成し遂げたことは、その後の自公連携の土台にもなりました。
――「自自公」連立の小渕政権時代、公明党の国対委員長を務めた草川さんは連立与党のキーマンでした。
草川 自民党国対委員長の古賀誠さんと自由党国対委員長の二階俊博さんと密に話し合い、連立三党が足並みを揃えて国会運営ができるよう心がけました。発足の経緯や歴史が異なる3党間で意見の違いが出るのは当たり前です。テレビ局からたびたび出演を求められましたが、三党の腹を探られるだけだから、我々が国対委員長をやっているうちは出演するのをやめようと提案し、三人揃ってテレビに出ませんでした。連立与党の司令塔である自民党幹事長代理の野中広務さんを支える「だんご三兄弟」と揶揄されましたが、とにかく無用な誤解や不信が生じないよう細心の注意を払ったのです。連立の結束を強める裏方にパフォーマンスは要りません。扇の要の野中さんは嘘をつかず、必ず約束を守ったから、信頼して付いていくことができました。
――小泉政権時代も連立与党の裏方に徹していましたね。
草川 公明党は小泉さんとの接点がほとんどなく、中選挙区時代に小泉さんと市川雄一さん(元公明党書記長)が競っていたから、むしろ疎遠な関係でした。連立を組んだ時、最も腐心したのが官邸との意思の疎通でしたから、何とかせねばという気持ちでした。たまたま旧知のノンキャリア官僚が、総理の懐刀である飯島勲首相秘書官と親しいことがわかり、仲介の労を取ってもらいました。初対面の飯島さんは開口一番、郷里の長野県辰野町にあるIHIの関連会社に在籍していたことを話され、大いに盛り上がりました。それ以来、毎日のように赤坂プリンスの某所で朝食をご一緒するようになりました。お蔭で公明党のホンネが総理の耳に確実に伝わるようになり、誤解や不信がなくなりました。飯島さんは役所のツボをよく心得ており、組織の隅々まで知る者という意味で「火元責任者」という表現で下積みの役人を大切にしていました。それは、これまでの官邸にない大きな武器になったと思います。
――参院選後の自公連立の課題は?
草川 「安定は希望」という公明党のスローガンは国民の気持ちをよく表していると思います。どんなに大勝しても自民党単独では、政治は安定しません。日本が直面する課題は多く、残された時間は少ない。政策決定のスピードが求められていますが、驕ったら必ず失敗する。憲法や安全保障の問題でも、公明党は独自の政策を持っています。連立を組んでも違うところはしっかり主張すべきです。
国会は今、国民の切実な声を聴いているでしょうか。声高な強者の声のみが響きわたっていないでしょうか。35年間の議員生活の中で、私は時代の激流に掻き消されてしまいそうな小さな声に耳を傾けてきました。飢えの苦しみを知る私は、平和な国で家族と幸せに暮らしたいという人々の願いを叶えることに、政治生命を燃やしてきました。権力の側に付き、上からものを見るのではなく、自ら信じる理想を掲げ、世直しの気概を持たなければ議会人とはいえません。その松明(たいまつ)を若い人に引き継いでもらいたい。それが国会を去る私の願いです。