2014年11月号
連載
by 宮
食道がんのため、2013年7月9日に亡くなった吉田所長(58)の告別式(同年8月23日・青山葬儀所、撮影/本誌 宮嶋巖)
某夜、400ページに及ぶ「吉田調書」を読む。3月14日夜のくだりに魂が打ち震えた。
「本当にここだけは一番思い出したくないところです。ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと……2号機はだめだと思ったんです。水入らないですもの。ただ溶けていくだけですから、燃料が。何も冷やさないと、圧力容器の壁抜きますから、格納容器の壁もそのどろどろで抜きますから、チャイナシンドロームになってしまう。プルトニウムであれ、何であれ、放射性物質が全部出て、まき散らしてしまうわけですから、東日本壊滅ですよ」
「現場の人間はミニマムにして退避ということを言ったと思います。たくさん聞いている人間がいますから、恐怖を呼びますから、わきに出て、電話でそんなことをやった記憶があります。ここは一番思い出したくないところです……(免震重要棟の)廊下にいた協力企業の方のところに行きまして、みんな、よくわからないでぼーっと見るなりしていますから、この人たちを巻き込むわけにはいかないと思って、一生懸命やって来ましたけれども、非常に大変な状況になってきて、皆さん、帰ってくださいと。退避とは言わないです、帰ってくださいと。あとは待つだけですから、水が入るかどうか、賭けみたいなものですから、それだけやったら寝ていました。寝ていたというか、茫然自失ですよね」
廊下の人たちはいなくなり、翌朝、所員の9割が2Fに退避し、69人が残された。「これでもうだめだと思ったんですよ。私はここが一番死に時というかですね……(すぐ退避しなかったのは)水を入れに行ったわけですよ。水がやっと入ったんですよ。水が入った兆候が出て、助かったと思ったタイミングがあるんです……」
内閣官房のHPで全文が読める。絵本を作りて子どもらに、歴史の真実(まこと)を語りたい。