2015年10月号
BUSINESS [特別寄稿]
by 水野雄氏(日本秘書協会理事長)
三村明夫日商会頭の基調講演
秋の気配が感じられる夏の終わりの土曜日、東京・永田町のザ・キャピトルホテル東急で開かれた「全国秘書会議2015」(日本秘書協会主催)会場に、全国から約200名の秘書が結集した。「オフィス実務のプロフェッショナルとは何か」を学び、情報交換し、交流を深めるためだ。企業や大学、病院の秘書や、秘書をめざす大学生など、立場は異なるが、参加者のまなざしは真剣で、かつ熱心だった。
日本秘書協会は1968年に厚生労働省が認可する日本で唯一の「秘書」のための社団法人として設立され、歴史と伝統がある団体である。2013年4月に一般社団法人に移行し、会員数は法人150社、個人500名規模で、本部のある東京や関西、九州地区を中心に、会員のスキル向上と相互の交流を目的にイベント、セミナーを開催している。1979年以来、バイリンガル・オフィスプロを輩出してきた国際秘書検定(通称CBS)も特色の一つで、グローバル化への対応はもとより、バイリンガル秘書の養成にも一役買っている。
冒頭の全国秘書会議は、年に一度開催している。23回目となる今年のテーマは「進化する秘書」だった。基調講演で登壇した第19代日本商工会議所会頭の三村明夫氏は、秘書を使う立場にある「経営者の苦しみと喜び」を、自らの経験を踏まえて話された。会頭のお話には、誰もが共感を覚え、私も思わず頷くことがしばしばあった。例えば、「会社にはCEOが絶対必要だが、二人以上は不要」「大きな環境変化への対応にも、正道が基本」等々。
昨年の同会議は、「Reborn(リボーン、生まれ変わる)」をテーマに、基調講演者は日立製作所の川村隆相談役だった。昨年、今年と、「変えるべきもの・守るべきものは何か」、「変化に対応したオフィスプロ人材とは何か」などを、参加者たちは交流も交えながら確認し合った。秘書の仕事は本質こそ変わらないものの、確実にリボーンし、進化している。私の秘書時代を振り返っても、そうだ。
私が秘書の仕事に就いたのは昭和60年7月、旭化成に入社して10年目のことだ。当時、副社長であった故山口信夫氏(後の旭化成会長、第17代日商会頭)に呼ばれ、「水野君、取り敢えず3年ぐらい私の秘書をやってもらうことになると思うが、いつもニコニコしていてね」と言われたのを覚えている。その言葉を皮切りに、山口氏が逝去する平成22年9月までの25年間、秘書室長、総務部長、秘書役などを経ながら、山口氏に仕え、多くの薫陶を受けた。それらを端的に言えば、「人間学」だったと言ってよい。
秘書の仕事には電話がかかせない。昔は今のようなスマートフォンはもちろん、一般の携帯電話もなく、今では死語となったポケットベルが命(必須)だった。ポケベルを持つまでは、「電話」連絡がとれる場所に張り付き、席を離れる時には必ず周囲に自分の行き先を伝え、片時も自分が「行方不明」になってはいけなかった。
山口氏も秘書出身だった。旭化成の社長、会長を31年間務め、事業の鬼と言われた旭化成「中興の祖」である宮崎輝氏の下で秘書室長、総務部長など、14年間にわたり「秘書」を務めた。日米繊維交渉で繊維業界を代表した宮崎社長の補佐を秘書として務めたほか、役員となってからも、へーベルハウスでお馴染みとなった住宅事業をはじめとする担当事業や、政財界に対する活動で宮崎社長を補佐した。それらが後年、日商会頭に推挙される理由となった。
私が秘書に成り立てのある日、山口氏がもらした一言が印象深く思い出される。それは、「仕事で唯一気持ちが安らぐのは、出張などで乗り物の中にいる時だ。電話が追いかけて来ないからね」という呟きだ。
山口氏が副社長時代の出来事だが、広島県の同郷である東映の岡田茂社長と休日にゴルフをしている最中に、宮崎社長から電話が入り、緊急で呼び出され、ゴルフの途中で帰ることもあった。
また、銀座のはずれにあった行きつけの店で、山口氏に随行し、二人で夜食をとっていた時だった。秘書室員しか番号を知らないはずの私のポケベルが執拗に鳴った。不安にかられ、店のテレビをつけてもらうと、旭化成のヘリコプターが墜落したというニュースがテロップで流れていた。不安が的中したのだ。山口氏と即刻、会社に戻り対応した。
話を日本秘書協会に戻す。実は、2002年の第10回全国秘書会議では、山口氏も基調講演をしているが、私と日本秘書協会との縁はそれ以前からだ。1996年開催の「第4回全国秘書会議」にパネリストとして参加したのがきっかけとなり、その翌年「私の実践的秘書論」と題してセミナー講演も行った。さらには、第28回「1997年度ベストセクレタリー賞」も受賞した。そのような関係もあったことから、一昨年から同協会の理事長に就任している。
ここで、理事長を引き受けることになった経緯にも簡単に触れておきたい。2013年4月、前任の故石川愛理事長が突然、当時の事務局長と旭化成本社に来社され、「担当医師から膵臓がんの告知と余命の宣告を受けたので、理事会の承認が得られれば、水野さんに是非とも後任を引き受けていただきたい」と懇願されたのだ。私は現役役員で、多忙を極めていたし、理事長は女性が望ましいとの思いもあったが、その真剣で、切羽詰まった様子に、「応諾」以外の選択は考えられなかった。
元来、秘書の仕事は、女性により適性があり、かつ活躍できる領域であると感じていた。全国秘書会議の参加者も、例年女性が8割を超えている。昨年1月開催の「2014年新春の集い」では、安倍昭恵総理夫人を招き、「女性が輝ける社会づくり」の講話を、そして、今年「2015年新春の集い」では、当協会名誉顧問の岩田喜美枝氏に「女性の活躍」の講話をしていただいた。
現安倍政権の看板政策の一つに、「女性の活躍推進」があり、女性活躍推進法がこの8月末に成立した。秘書の仕事においても、例えば秘書室長の役割を女性が担うなど、今まで以上に女性が輝き、より一層社会で活躍できる機会が広がることを期待したい。