石崎 芳行 氏
東京電力福島復興本社代表
2016年3月号
DEEP [インタビュー]
聞き手/本誌編集長 宮嶋巌
1953年東京都生まれ。慶大法卒。77年東電入社。福島第2原発所長を経て2013年より現職(東電副社長を兼務)。Jヴィレッジに常駐し、賠償、除染、復興推進を指揮。浜通りと縁が深く、母親が会津出身。
――あれから5年を迎えます。
石崎 地元に密着し、賠償、除染、復興推進を加速するため、浜通りに福島復興本社を作って丸3年。古里を追われた方々の苦しみを常に忘れず、私たちができること、私たちにしかできないことを、社員と共にひたむきに続けてきました。今も至らぬこと、お叱りを受けることが多いけれど、一条の光が差してきたように感じます。昨秋、Jヴィレッジのある楢葉町の避難指示が解除され、約400人(全体の約6%)が帰還されました。昼の町に人影が戻り、新築・改築のお宅が増えました。
――避難者が10万人以下となり、南相馬市や川俣町、葛尾村でも解除準備が進んでいます。
石崎 最後のお一人まで丁寧な賠償に努めてまいりますが、お金だけで済む問題ではないのです。我々は各自治体や古里を追われた皆さまを訪ね、「東電社員も古里再生に参加させてください。何でもやります」とお願いして回りました。そして3年前の復興本社設立と同時に、東電全社員(約3万3千人)を福島に派遣し、復興のお手伝いをする汗かき活動を開始しました。
――当初は「10万人プロジェクト」と呼んでいましたね。
福島復興本社があるJヴィレッジは、ただ今除染中(2月3日、撮影/本誌 宮嶋巌)
3月中に福島復興本社が移転する浜通り電力所(富岡町)
避難指示が解除された楢葉町での清掃活動
石崎 一時帰宅のお手伝いや、民家や道路の清掃・片付け、公園や墓地の除草・除雪活動など、全社員が交代で福島を訪ね、昨年末までに延べ22万人が、ひたすら地元で汗をかいてきました。初めは東電のユニフォームで被災地に入るのを怖がる社員もいましたが、今では福島の皆さまと心を通わせることができるようになりました。とはいえ「22万人」は通過点に過ぎません。日本航空は昨年、御巣鷹山墜落事故から30年を迎えましたが、「事故の教訓」を風化させないために安全啓発センターを開設し、社員がご遺族と慰霊登山を続けています。私の心には30年経っても御巣鷹山と同じエンドレスを念ずる思いがあります。今年のキーワードは、古里に戻られた皆さまと、より身近に「ふれあい」「つながる」ことです。
――近く復興本社を居住制限区域内の富岡町に移しますね。
石崎 いまだご帰還が叶わぬイチエフ10キロ地点に、まず我 々の本社を移すことで、一時帰宅の皆さんとふれあい、つながり、復興を加速したいと思います。富岡町より一足先に避難が解除された楢葉町の皆さんと、より身近に接し、共に古里再生の道を歩めるかが、私たちの試金石になると考えています。
――復興本社の活動を知ってもらおうと、石崎さん個人でフェイスブックを始めましたね。
石崎 お友達が1100人を超えました(笑)。日々の生活で感じたこと、地元の皆さんとの交流やこぼれ話を紹介して「うつくしま福島~明日もがんばっぺ!」で締めくくります。
今春、電力自由化の中で東電は持株会社に移行し、各事業会社は稼ぎに走ることになりますが、新たなブランドの宣言文には「わたしたちは福島を忘れない」と明記しました。組織形態は変わっても全社員が「福島と共に歩む」決意を常に持ち続け、福島を風化させない使命が、復興本社にはあります。