なぜ、執刀医の「暴走」を止められなかったのか。当時の医学部長は責任頬かむり。次期学長を狙うおぞましさ。
2016年7月号 DEEP [次期学長に[医学部のボス]]
前橋市の群馬大学医学部。隣接して附属病院の建物がある
医学部に隣接する群馬大学医学部附属病院
群馬大学医学部附属病院の外科医が18人もの患者を手術死させた事件が発覚してから1年7カ月。第三者による医療事故調査委員会(委員長=上田裕一奈良県総合医療センター総長)の最終報告書が近々まとまりそうだ。群大病院では、須納瀬豊・第2外科助教(当時)による腹腔鏡手術を受けた患者8人が術後4カ月以内に死亡、開腹手術の患者も09年以降に10人死亡した。肝臓の腹腔鏡手術は高度な技術が求められ、その実施には院内の倫理審査、患者が死亡した時には医療安全部門への報告義務があるが、いずれも行われなかった。インフォームド・コンセントも極めて不十分だった。
なぜ、群大は須納瀬氏の「暴走」を止められなかったのか。医療事故調は、須納瀬氏のケースだけでなく、第1、第2外科が行った消化器外科手術の死亡64例のうち50例について、日本外科学会に検証を依頼。その結果、全50例の診療経過に不備が見つかり、群大病院の組織的な欠陥が浮き彫りになりつつある。
最終報告書が出るまでに長期間かかったのは群大側の落ち度である。当初群大は峯岸敬副院長(当時)を委員長とする院内調査委員会を立ち上げ、15年2月に報告書をまとめたが、その運営は常軌を逸したものだった。まず院内委員7人、外部委員5人を選んだが、外部委員の2人は匿名の人物であり、1人は大学の顧問弁護士だった。しかも、9回の会合のうち、顧問弁護士以外の外部委員が出席したのは初回のみ。2回目以降は出席すら求められなかった。さらに、委員会の議事録や執刀医からのヒアリングの記録を外部委員に開示せず、報告書の内容を勝手に書き換えた。外部の目を遠ざけ、身内だけでまとめた「お手盛り報告書」である。群大OBの医師が語る。
「外部委員が報告書を了承した後、死亡した全例に『過失があった』と、病院側が加筆したのには驚きました。執刀医が抗議するのも当然です。これは、副病院長の峯岸委員長自ら書き加えたもの。さらに『診療科長の管理責任は重大』と指摘し、執刀医の上司だった竹吉泉第2外科教授の責任も追及しました。本来、事故調の目的は手術死の原因解明と再発防止であり、個々の過失認定は司直の手に委ねるべきです」
群大関係者は「実験的な医療という位置づけの肝臓の腹腔鏡手術は、そもそも保険適用外。群大病院は適用外の手術を保険診療として診療報酬を請求していた。病院長の次に責任が重い峯岸副院長を調査委員長に指名したのは、執刀医と竹吉教授に責任を押し付け、1日も早く事件に幕を引きたかったからではないか」と勘繰る。
遺族側弁護団は「悪質な医療過誤に当たる」として、執刀医らの刑事告訴を検討しており、万一、刑事事件になると病院のダメージは計り知れない。群大病院のお手盛り報告書には、須納瀬、竹吉両氏に過失を早く認めさせ、遺族との示談を誘導して、刑事告訴を避ける思惑が透けて見えた。
ちなみに、群大事件の前に発覚した千葉県がんセンターの腹腔鏡手術死事件では、千葉県主導で病院や自治体と利害関係がない第三者による調査委員会をつくり、昨年3月に事故原因の解明と具体的な再発防止策を盛り込んだ調査報告書を発表した。むろん個人の過失認定の記載はなかった。
15年4月、厚生労働省の審議会は、群大の調査報告書の「作成過程に問題があった」「責任を明確化する必要がある」として、厚労相に厳重処分を進言。患者8人が死亡するまで3年半も異常事態を放置してきたことを重く見た厚労省は、高度な診療を行う「特定機能病院」から群大を除外した。
読売のスクープを受けた野島病院長(当時)の記者会見(14年11月14日)
Photo:Jiji Press
追い詰められた群大病院はやむなく15年8月、冒頭に述べた医療事故調を立ち上げ、一から調べ直すことになった。これに先立ち群大は15年4月、外部の有識者でつくる改革委員会(委員長=木村猛・大学評価・学位授与機構顧問)を発足させ、改革委は10月に「中間まとめ」を提出した。その記者会見で、木村氏は「群大独自のヒエラルキーが構築され、患者視点の対応ができていなかった」「医学部の発言力が大きく大学としてガバナンスが及ばなかった」「先輩・恩師に対して発言しにくい風土があった」などと厳しく言及。須納瀬氏についても「執刀医は人間の尊厳を全くと言っていいほど尊重していない。絶対に許すことができない」と断罪した。
背景としては、同じ専門なのに第1外科と第2外科が別々の指揮命令系統で独立運営され、張り合う関係だったことを指摘。事件後、群大病院は両診療科を統合して「外科診療センター」になったが、医学部には二つの講座が残っており、附属病院=医学部の問題であることは明白だった。
この間、群大病院の閉鎖的な風土は改善されたのか。群大関係者は「何も変わらない」と言う。「群大には医学部と教育学部、理工学部、社会情報学部の4学部しかない。全国ブランドは医学部だけだから、パワーバランスが医学部に偏り、他学部は頭が上がらない。だから、これほどの事件を起こしても、医学部は責任を取らない」。
先の群大出身の医師が語る。
「執刀医の須納瀬氏は15年3月に退職し、県内の病院で医師として働いているようです。竹吉氏も第2外科(医学部の臓器病態外科学教室教授)を降板したが、今も大学院の教授として教授会には出ているらしい。恐らく大学側は、医療事故調の最終報告書が出たら竹吉氏に詰め腹を切らせるでしょう。執刀医の次は教授を追い出し、組織的なケジメをつけたいはずです」
患者と家族に「簡単な手術だ」と語り、未熟な技量で危険な手術を繰り返した須納瀬氏と、病院側の聞き取りに「多くの患者の死亡は把握していたが、それがどれだけまずいことか認識していなかった」と答えた竹吉氏の罪の重さは疑う余地がない。
一方で、現在の群大病院長・田村遵一氏は、読売新聞の取材に「第2外科が病院経営に貢献しようと、手術をたくさんする方針だったことは間違いない。……後から消化器を扱い始めた第2外科では、負けたくないという対抗心があったのだろう。……(執刀医は)次々に手術をこなす職人のような人で、症状が改善した患者も多い」などと他人事のように語っており、須納瀬、竹吉両氏が黙って引き下がるとは思えない。
とはいえ、大学側が「トカゲの尻尾切り」による幕引きを望んでいることは、昨年3月の学長人事の駆け引きからも窺えた。
15年3月、前学長の高田邦昭氏(東大卒、元医学部長)が任期満了で退任し、県立県民健康科学大学学長に転じた。群大病院の死亡事故は、高田氏の学長在任中に多発したが、本人が責任を問われることはなく、後任には、事件発覚時の群大病院長、野島美久氏(東大医学部卒)の昇格が決まっていた。医学部関係者が内情をぶちまける。
「高田氏の意中は和泉孝志医学部長(東大医学部卒)でしたが、人気がなく早々とレースから脱落。残った野島氏と石川治氏(群大医学部卒)の現・前病院長の一騎打ちになり、野島氏に軍配が上がった。学内から『次期学長に病院長が就くなんてあり得ない。今回は辞退すべき』との声が上がったが、上層部は聞く耳を持ちませんでした」
「改革委」の木村猛委員長が喝破した通り、群大には医学部を中心とする「独自のヒエラルキーが構築」され、東大医学部出身者が頂点を占めている。高田氏から野島氏へのバトンタッチは既定路線だった。
しかし、「群大の常道」は世の中に通用しなかった。15年3月3日に、先の院内調査報告書を公表した野島病院長は、3月9日の厚労省の審議会で窮地に立たされた。それでも高田学長は、野島氏を推したが、文部科学省から「病院長はダメ」と突き返された。ならばと野島氏の東大医学部の二つ先輩の和泉氏を推したが、文科省から「医学部は除外」と引導を渡された。このため、高田氏は群大工学部出身の平塚浩二副学長に学長就任を頼み、その任期は17年3月までの2年間とした。学長任期は4年だが、平塚氏は緊急時のリリーフというわけだ。学長を盥(たらい)回しにする高田、野島、和泉の東大医学部閥には、大学の信頼回復など念頭にない。
更に興味深い話がある。群大事件は、14年11月14日付の読売新聞のスクープで発覚したが、実は同年6月頃から、野島病院長の下で独自の調査を始めていたという。
「野島氏は11月14日に厚労省に事故報告を届け出て、記者会見を行う予定でした。病院自ら公表することで自浄能力を示すつもりだったのですが、読売が報じたため、野島氏は事件を隠蔽した張本人と疑われ、火だるまになった。学長選のひと月前でしたから、前病院長の石川氏もダメージを受けました。あの読売のスクープは学長選を攪乱する内部リークだったと、まことしやかに囁かれています」(群大関係者)
読売の報道以来、群大は混乱を極め、野島氏が学長を辞退し、平塚氏が後を襲った経緯は、先に述べたが、その後、野島氏は病院長も辞し、ヒラの医学部の教授に戻った。一方、医学部長だった和泉氏は副学長・理事(研究担当)に栄進した。野島氏の後任の病院長には、前出の田村氏(群大医卒)を抜擢、事故防止安全委員長を務めたことが決め手になった。さらに、問題だらけの報告書をまとめた峯岸氏(群大医卒)も医学部長に昇進。田村、峯岸両氏は、和泉氏の側近である。読者はもうお気づきだろうが、事故発覚当時の医学部と病院の上層部は揃って栄進しており、ババを引いたのは学長を辞退した野島氏だけだ。それも医学部の教授として残っており、復活の目がないわけではない。
そして今、野島氏に代わって次期学長に王手をかけたのが和泉氏だ。15年12月に発足した群大の「病院コンプライアンス委員会」は、医療事故調と病院改革委と連携して再発防止・改善策を提言し、医学部・病院改革のエンジンを担う。その司令塔の委員長に、和泉副学長が就いたのだ。翻って事故発覚まで、長く医学部長を務めてきた和泉氏に管理責任はないのだろうか。
医学部関係者が語る。「本来、難易度の高い腹腔鏡手術は、保険適用外の実験的な医療として教授会で審議されるべきものです。和泉氏は5年近く医学部長を務め、各教授の臨床研究を十分に把握できる立場にあった。しかも事件当時の第2外科の竹吉教授は医学系研究科の教員でもあり、直属の上司は医学部長で医学科長を兼務する和泉氏でした。竹吉氏は事件発覚後に教育・研究業務から外されたが、その業務命令を出したのも和泉氏です。つまり和泉氏は竹吉氏の人事権者であり、野島病院長と同レベルの管理責任があるのです」
そもそも群大医学部附属病院の名が体を表すように、病院と医学部は一体であり、事件の根っこには医学部組織の意思決定の歪みや閉鎖性が横たわっている。
事件発覚後、医学部教授会を開いて討議すべきだとの声が、学部内から湧き上がったが、医学部長の和泉氏は「病院の問題を教授会で話し合う必要はない」と拒否した。峯岸氏の調査報告書の内容も、野島氏の学長を辞退した経緯も、教授会や職員には一切説明がなかった。こうした隠ぺい主義と閉鎖性、有無を言わせぬトップダウンが、今回の事件の根底にあるのは明白なのに、和泉氏には反省のかけらもない。
本来、和泉氏と野島氏とは同罪だというのに、和泉氏は責任を問われることなく、医学部・病院改革の先頭に立つというのだから、もはやブラックジョークである。
本誌は、事故発覚当時の医学部長と副病院長の責任を問い、和泉氏の副学長、峯岸氏の医学部長への昇進に疑問を投げかけたが、群大は「副学長及び医学部長について、大学として相応しい適任者を選任している」「附属病院の医療事故については、大学として再発防止策を含む改善策を進めているところである」(総務部総務課広報係)と木で鼻を括ったような回答を寄越した。
次に和泉氏の自宅を直撃したが「申し上げることはございません」と一言のみだった。さらに、須納瀬氏と竹吉氏の自宅を訪ねたが、締切日までに回答はなかった。
病院改革委や医療事故調、教授会などから、平塚学長の下での改革への期待を耳にするが、平塚氏の任期は来年3月末まで。次期学長に守旧派の「医学部のボス」が座ったら元の木阿弥だ。今年8~9月頃から事実上の学長選がスタートする。悪運の強い和泉副学長が、学長の座に就く姿だけは見たくない。
※本文中、石川春律氏(九大医学部卒)とあったのは石川治氏(群大医学部卒)の誤りでした。訂正しお詫びいたします。(2016年7月7日)