なぜ、同じ研究室に通う学生が2人も命を絶ったのか。身内を庇い、不祥事を揉み消す生物資源科学部の恥部。
2016年9月号 DEEP [特別取材班「追跡14弾」]
医動物学研究室のホームページ
日本大学・生物資源科学部獣医学科の「医動物学研究室」に通う学部生と大学院生が、過去4年間に2人も自殺していたことが本誌の調べでわかった。研究室の担当教授はいずれも同じ人物だった。2人の遺族は「自殺の背景に教授のいじめがあった」と話しているが、生物資源科学部側は本誌の取材を拒み、事実確認にすら応じていない。
「教授からは、いまだにお悔やみも謝罪の手紙もありません。亡くなった後、一度、教授から自宅に電話があり、そのとき妻が『息子と行き違いがあったのですね?』と聞くと、教授は『ハイ…』と認めておられた。なぜこういうことになったのか、教育者としてご自分に何が欠けているのかを反省していただき、『すみません』の一言をいただければ、私どもはそれで十分なのです。息子は後1年で博士号が取れるところでした。無念でなりません……」
野上貞雄教授(獣医学科校友会の会報より)
生物資源科学部の河野英一・前学部長(日本大学広報より)
昨年6月、日大獣医学科の大学院生だった安藤悟さん(仮名)を亡くした遺族は、本誌の取材に時折、声を詰まらせながらそう話した。安藤さんは友人が多く、家族葬には日大スキー部と獣医師の友人らが弔いに訪れたが、担当教授の姿はなかった。
獣医学科は日大の看板学科の一つであり、同学科卒業の酒井健夫氏が第12代日大総長に就任していることでもわかるように、日本一のマンモス大学内で一大勢力を築いている。
獣医学科の研究室は全部で25ある。安藤さんが学んでいた医動物学研究室は動物の寄生虫病が主な研究テーマで、安藤さんはキタキツネの感染症の研究に打ち込んでいた。研究室の担当は野上貞雄教授であり、野上氏は日大獣医学科を1974年に卒業し、東大医科学研究所文部技官などを経て99年から日大獣医学科の教授(大学院教授を兼務)を務めている。
「息子は学部時代に野上研究室に在籍し、卒業後は2年間獣医師として働いたが、研究がしたいと大学院に入り、再び野上研究室に戻りました。息子は最初、野上先生を尊敬していて、研究室の会計や鍵の管理も任され、ティーチングアシスタントとして学生さんたちの面倒も見ていました。
亡くなる前、息子は博士論文をほとんど完成させていて、リバプールの学会で研究発表をすることも決まり、航空機のチケットまで買っていた。本人はやる気満々で喜んでいたのですが、なぜか野上氏は『安藤君は発表をやりたくないと言っている』などと周囲に話したようです。息子は野上氏から無視されていたらしく、いくらメールを出しても返信がなかった……。
実は大学には見せていませんが、息子は遺書を残しています。そこには『人に嘘をついたり、見捨てたり、恨んだり、のし上がっていく人が上手に生きて、なぜ真面目に生きている人が辛い思いをしなければならないのか』などと書いてありました。
私は、自宅を訪れた大学の事務職員の方に『息子の死について調査委員会を作り、教授会で何が問題だったのか話し合ってほしい』と頼みました。ところが教授会では『安藤君が死亡して除籍になった』と報告があっただけで調査委員会がどうなったか、1年経った今も、何の説明もありません」
本誌は、安藤さんの事件の3年前に自殺した野上研究室の学生、上原浩さん(仮名)の遺族からも話を聞くことができた。遺族は上原さんの死を無駄にしてほしくないとの思いから「大学側に『このままあの先生を放置しておくと、きっと第二、第三の自殺者が出ますよ』と、何度もお話ししたが無視されました。悔しいです」と嗚咽を漏らした。
上原さんが野上研究室に入ったのは4年生の4月。獣医学科は6年制で、4年生になると25ある研究室のいずれかに所属し、実験、研究、卒論作成に取り組むことになっている。遺族の話では、野上教授と上原さんの関係が壊れたきっかけは「4年生の後期試験の前に、突然、野上教授から『後期試験はいいから卒論を出せ』と言われたこと」。学部生の卒論提出は「通常6年生の11月以降」(日大獣医学科関係者)だが、野上氏は4年生の上原さんに卒論提出を求めたというのだ。
「テスト前に卒論を出せなんて、カリキュラムを無視して、学生の能力を超える過重な課題を押し付ける権限が教授にあるのでしょうか。各研究室は獣医師国家試験の合格率を競っていて、野上教授は息子の成績が芳しくないので教室から追い出そうとしたのではないかと思います」(遺族)
別の獣医学科関係者によると、もともと野上氏は「研究実績を上げることに人一倍執着するタイプ」という。「学生が研究実績を上げれば、自ずと担当教授の学会での評価が高まるので、野上氏は学生の能力を超える研究課題を与えていた。それができない学生には『あんたにはムリ』『うちから出て行って』などと情け容赦がなかった。実際、野上研究室には毎年4月に10人前後の4年生が入ったが、7月までに半減するのが通例でした」と、野上氏をよく知る人物は打ち明ける。
大学では4年の7月までは研究室の異動を認めているが、それが過ぎると異動は難しい。「4~6年生と院生を合わせても20~30人の小所帯ですから、人間関係が濃い分、教授に嫌われた学生は逃げ場を失う。研究室を追い出されたら獣医師や研究者になれないので、教授に何を言われても、我慢するしかないのです」(獣医学科関係者)
結局、上原さんは卒論を提出しなかった。一方、2011年4月、野上氏は獣医学科の学科主任に栄進する。同月、上原さんは野上教授との面談中にパニック症状となり、医務室に担ぎこまれた。この時、野上氏は上原さんが倒れたことを実家に電話連絡し、こう捲し立てたと言う。
「上原君が卒論をどう書くかわからないので指導してほしいと言ってきたが、私はそんなことは自分で考えろと話した。上原君は成績が悪いからこの先6~7年の留年は確実だ。上原君も疲れたろうから、お母さんから彼に大学を辞めるように言ってもらえませんかと、何度も言われました」(遺族)
上原さんは対人恐怖症のような症状で通院するようになり、研究室に顔を出せなくなった。5年次を留年したため、母親は「退学して別の道に進む方法もある」と話したが、上原さんは「そういう話はしないで。ぼくは獣医師になりたいんだ」と、自らの夢を語ったという。
12年6月、上原さんは野上氏と面談して「獣医師になるために野上研究室に戻りたい」と訴えたが、受け入れられるはずもなかった。失意の上原さんは故郷に帰り、翌月、自らの命を絶った。
上原さんの死の直後、獣医学科の科内会議で「過重な課題を与えたのは教育者として失格」との発言があったが、それ以上の議論はなかったという。野上教授は「彼は失恋が原因で亡くなった」と周囲に語ったというから、自責の念はなかったのだろう。
「息子が自殺した日、野上氏に電話すると、ぶっきらぼうに『何ですか』と言う。私が『いま息子が息を引き取りました』と言うと、野上氏は『はあっ?』と声を上げ、お悔やみの一言もなく一方的に電話を切ってしまいました。その後、現在まで野上氏から、お悔やみも謝罪も一切ありません」
遺族の訴えを受けた学部側は、学部内の複数の教授らによる調査委員会を立ち上げ、自殺から1年後の13年7月、学部事務局職員が遺族を訪ねて調査報告書を渡したが「内容は野上教授のいじめはなかったと、よく調べもせず言い訳ばかり。到底納得できないので受け取りませんでした」(遺族)
本誌は事件当時の学部長で昨年、日大を定年退職した河野英一前日大副学長に疑問をぶつけた。「上原氏については学生間のイジメもあり、日大の顧問弁護士とも相談してアカハラはなかったという結論になった。とはいえ、野上氏には管理責任があるので『今後、言動に気をつけていただきたい』と注意し、学科主任選挙への再立候補を辞退するよう申し上げた。お互いに言い分があり、ご遺族の言い分だけで教授をクビにはできません。野上さんにも人権があるから」と、身内を庇う弁明に終始した。
さらに、「安藤さんの遺族が望んでいるのに、なぜ、調査委員会を作らないのか」という質問に対しても「安藤氏が悩んでいたとは聞いているが、ご本人の問題もあるので(個人的悩みというニュアンス)……。遺書があることは知っていますが、内容は知りません」などと、言葉を濁した。
一方、渦中の野上氏は今年4月、学部の総合研究所の所長に栄転していた。同所長は将来、名誉教授の称号が得られる要職で「昨年10月の学部長選挙で大矢祐治教授を学部長に推し、票集めに協力したことへの論功行賞」(関係者)との見方がもっぱらだ。本誌の電話取材に対し、野上氏は驚いた様子もなく、意外なほど冷静にこう話した。「自殺者がいたことは研究室の所属なので存じておりますが、それ(アカハラ)はないと思う。電話でお答えしていいのか……。学部を通していただけますか」
やむなく本誌は大矢学部長宛てに約10項目に及ぶ質問状を送ったが、3日後、大矢氏は「取材・ご質問はお受けいたしかねます」と書いた文書をファクスで送ってきただけで、一切の説明を拒否した。なぜ、将来有望な若者は死を選んだのか。それを徹底的に調査して、再発防止に努めるのが教育のあるべき姿だろう。同学部では、前出の酒井氏が学部長時代にも学生の自殺者が相次いだことがあり、本誌特別取材班の「アカハラ自殺」追跡は始まったばかりだ。
◎特別取材班への情報提供のお願い 日本大学の現状に疑問を抱き、大学の将来を危惧する教職員や卒業生の方々の情報提供をお願いします。秘密は厳守します。皆様の勇気ある情報提供をお待ちしています。メールの宛先は、日大特別取材 leaks@facta.co.jp です。