天正遣欧少年使節とティントレットの絵
2017年11月号
LIFE [美の来歴 第2回]
by 柴崎信三(ジャーナリスト)
400年の歳月を超えて蘇った「伊東マンショの肖像」(伊トリブルツィオ財団所蔵)
伊東マンショら天正遣欧少年使節の4人がポルトガルの首都、リスボンに着いたのは1584年8月11日である。
2年前に長崎を出発した時、まだ13歳と14歳のいたいけな少年だった4人は、マカオ、マラッカ、ゴアから喜望峰を回って北上する長い船路の間に、逞しい若者に成長しつつあった。
肌に焼けつく酷暑と嵐で荒れ狂う海に船は弄ばれたが、喜望峰を越えると、ようやく穏やかな大洋が果てしなく広がる。
<幸いなるかな 貧しい者、天の王国はその人のものである>
聖書の「マタイによる福音書」にある「山上の垂訓」の一節が、マンショたちは好きだった。船上で巡察使のメスキータが朗読したこのくだりを暗誦すると、若々しい声はたちまち紺青の波頭に飲み込まれていった。
広い甲板の上で4人は近づく欧州という未知の世界と、荘厳なサン・ピエトロ大聖堂の伽藍に想像をめぐらした。日本語とラテン語を繰り返し学び、時折持ち出したリュートを奏でて歌を歌った。チェスを楽しみ、釣り糸を垂れて大きな鰹や鯛を次々と釣り上げたこともある。
2年半の危険な旅路の果てに欧州の土を踏んだ4人は、九州のキリシタン王(大名)たちの名代である。マンショは大友宗麟の縁戚として正使に選ばれた。
大航海時代を背景に世界戦略を企むカトリック教会にとって、4人は版図の拡大を象徴する重要な「媒体」であった。その後、地中海沿いに20カ月にも及んだ一行の行脚のエキゾチックな光景は、ヴァチカンでの教皇グレゴリウス13世との謁見を頂点に、ルネサンス期の欧州社会を賑わす歴史的な椿事となった。
11月25日、移動したマドリードでスペイン国王、フェリペ2世と謁見した。遥々日本から運んだ漆の文箱や金箔を散らした鉢などが献上された。
王宮でマンショと千々岩ミゲルが日本語で大友宗麟の書状を読み上げると、国王は満面に歓喜をたたえて応えた。和服姿を見たい、というので羽織袴で正装した4人の若者の姿は、凛々しいという評判を呼んだ。
地中海を船で渡ってイタリアに上陸し、ローマへ至る途上の各都市で起きた歓迎の渦は、この「東洋の貴公子」をめぐる誘致合戦さながらの熱狂を帯びた。
マンショの吃驚の一つは、ピサでトスカーナ大公妃の催す大舞踏会に招かれて、華やかな夜会服に着飾った公妃らと、その場で踊ったことである。
美しい公妃の手を取り、見よう見まねでステップを合わせようとするが、旋律が高まるほどに後れを取り、そのたびに参会者の失笑とざわめきが広がる。
「ここで二つのことが生じた。ひとつは感動であり、ほかは愛嬌である。ふたつとも臨席者に大きな歓喜を呼び、ドン・マンショの謙遜と教養に賛辞が浴びせられた」。ルイス・フロイスはそのように記した。
1585年3月23日。教皇グレゴリオ13世との謁見式でヴァチカンの宮殿「王の間」へ向かう使節の行列は、教皇の騎兵隊を先頭に、枢機卿たちの騾馬の隊列がつらなり、騎士団や鼓手の後尾に、馬上のマンショら使節の若者が続いた。羽根つきのビロードの帽子に羽織袴で帯刀した一行がサン・ピエトロ広場に差し掛かった時、衛兵たちの号砲が春浅い青空に響き渡った。
宮殿の謁見式では日本の諸侯から託された書簡が朗読され、84歳の教皇は滂沱(ぼうだ)の涙を流した。
教皇はそれから僅か18日後、急逝する。ヴァチカンでは新たな教皇の選出へコンクラーベが行われ、マンショたちは新たな教皇、シクストゥス5世の戴冠式にも出席した。ともあれ、ここにカトリックという信仰が媒介した東西世界の精神の紐帯が、か細くも結ばれたのである。
さて。この東西の文化の往還のドラマにはいくつかの美術作品がかかわっている。現存する作品でよく知られているのは、教皇シクストゥス5世がマンショらを迎えて即位したその年、ヴァチカン図書館に大広間を作り、正面の壁画に4人の少年使節を描かせた「ラテラノ教会行幸図」であろう。
かねてより評判が伝えられながら所在が分からなかったものに天下人、織田信長がイエズス会巡察使、ヴァリニャーノに下賜し、マンショら少年使節が預かってきたという狩野永徳筆の「安土城図屏風」がある。
宣教師たちが「黄金のパヴィリオン」と呼んだ幻の安土城を描いたもので、教皇グレゴリウス13世へほかの漆の工芸品などとともに献上されたこの作品は、いまも行方が知れない。
そして…。ローマを後にしたマンショらの一行は6月26日にヴェネツィアに入り、ここでも盛大な歓迎の渦に包まれる。この時、当時ティツィアーノと並ぶヴェネツィア派絵画の巨匠、ティントレットが4人をスケッチし、それをもとに完成させたというマンショの肖像画の存在が久しく伝えられてきたが、これも行方不明のままだった。
ところが2014年、イタリア北部の個人蒐集家のもとにあった東洋人風の若い男性の肖像画をイタリア人研究者が調査したところ、この幻の作品と確認されたのである。
カンバスの裏の「日向の王の縁者、豊後のフランシスコ王の使節、ドン・マンショ」の記述などが決め手となった。肝心の作者は、描かれた着衣の襟飾りの風俗などから息子のドメニコ・ティントレットが下絵をもとに後年完成させたとみられ、作品は現在トリブルツィオ財団のもとに置かれている。
それにしても、幻だった「伊東マンショの肖像」が400年の歳月を超えて蘇ったのである。
ヴェネツィアを発って再びリスボンまでの道のりをたどり、長い祖国への航海を終えた4人の帰国を待ち受けていた過酷な運命については、改めて語るまでもなかろう。信長に代わって天下を治めた豊臣秀吉は1587年、バテレン追放令を発してキリシタン弾圧に乗り出す…。
帰国後、千々岩ミゲルは棄教して大村藩に戻り、1633年ごろ死去。中浦ジュリアンは司祭に叙され、1633年長崎で穴吊りの刑で殉教。原マルティノは司祭としてマカオで布教ののち1629年同地で死去。
そして伊東マンショは司祭に叙され、マカオや九州各地で布教ののち1612年病死した。