東日本大震災から丸7年――。福島第一原発に近接するJR常磐線復旧工事の現場が、初めて公開された。(本誌発行人 宮嶋巌)
2018年4月号 LIFE
線路の両側に築かれた2.3kmの白い壁
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福島第一原子力発電所(1F)に隣接する大熊町中央台は、発災直後、空間線量が毎時数百μ(マイクロ) Sv(シーベルト)を記録した地区であり、7年の歳月を経た今も毎時数十μSvのホットスポットが残る「帰還困難区域」である。
上野駅(東京)~仙台駅(宮城)間を結ぶJR常磐線は順次復旧したものの、帰還困難区域を走る富岡駅~浪江駅間の運行再開は全く見通しが立たなかった。節目になったのは2015年3月10日、安倍晋三首相の「地元の皆さんの強い期待に応え、常磐線の全線運転を再開させる」という決意表明だった。この政府方針を受けたJR東日本は高線量区間の試験除染に着手し、除染作業の課題解決の見通しが立ったことから、1年後の16年3月10日に「19年度末までに全線運転を再開する」と発表した。
ホットスポット「中央台」での復旧工事
「中央台」周辺での除染作業
水戸支社の堀込順一設備部長
大震災から丸7年を控え、大野駅(大熊町)~双葉駅間5.8㎞の復旧工事の模様が、初めて公開された。帰還困難区域との境に設けられた「検問」を越えた報道陣が最初に向かったのは、大野駅近くの復旧現場。「除染を始める前は毎時10μSvを超えていたが、生い茂る草木を伐採し、表土を5~10㎝はぎ取り、放射性セシウムを吸着した枕木とバラスト(敷石)を取り換え、高さ8mの斜面にモルタルを吹き付けることにより、1.8μSvまで下がりました」(JR東日本水戸支社、堀込順一設備部長)。線路の両側約2.3㎞にわたって築かれた白い壁が眩しい。除草・伐採から表土のすきとり、モルタル吹付まで2年かかった。
次に向かったのは、1Fから西へ約3㎞のホットスポット「中央台」。除染前は毎時20~30μSvあった空間線量を約10分の1に下げることに成功した(当日の実測2・8μSv)。「全面マスクにタイベックスーツを着用した草刈り・表土のはぎ取り作業は過酷で、夏場は早朝作業になりました。最も除染に苦労した場所であり、線量を下げるのに1年半かかりました」(堀込氏)。現在も敷地周辺では「除染作業中」ののぼりを立てたタイベック姿の作業員が働いていた。枕木とバラストを交換し、線路を敷く作業はこれからだが、「最大の難所」を克服した現場のムードは明るかった。
最後に向かったのは、双葉駅から南へ1.6㎞下った第一前田川橋梁の復旧現場。常磐線は駅舎や車両、線路が津波で流され甚大な被害を受けたが、地震で落ちた橋は、ここだけだ。全長96mの橋が崩壊した第一前田川は、地震被害が最も大きかった鉄道施設として震災史に残るものだ。
比較的空間線量が低かったため、大野・双葉間で最も早く(16年3月18日)復旧工事に着手し、順調に作業が進み、落橋した上り線は橋を掛け替え、橋脚にヒビが入った下り線も修復が完了した。レール・枕木・排水設備などの復旧を待つばかりだ。
2年間の復旧工事を振り返り、堀込氏は「帰還困難区域に多い時は600人、今も毎日300人の関係者と工事車両が立ち入り、作業をするには、地元の皆さまと国と地方自治体のご協力がなければ、決して為し得ないことでした」と、「検問」を越えなければ入れない「異界」での工事の難しさを語った。さらに「JR東日本にとっても施工会社の皆さんにとっても高線量下での作業は未経験であり、手探りの連続でした。しかし、誰もが、この地に鉄道を走らせることは意味があると信じ、お約束の19年度末までに全線で運転再開できるよう、一番の難所を克服し、これまで順調に工事を進めることができました」と胸を張った。
完成した第一前田川橋梁
除染のメドがついたため、今後は線路と枕木の復旧、分岐器の交換、ホームの舗装、駅舎の除染・修繕、電化柱、信号・通信設備などの復旧工事にシフトする。双葉町はJR東日本と協定を結び、双葉駅を「復興拠点」とする構想をまとめ、大熊町は常磐線全線開通を見込む20年春に大野駅周辺の避難指示を先行解除し、富岡町も同じく夜ノ森駅周辺の避難指示を解除する考えだ。
「20年春」が待ち遠しいが、今日も多くの皆さんが、あの検問を通過し、住民が1人もいない帰還困難区域で、黙々と汗を流している姿が忘れられない。