参院東京選挙区 あと一歩の「奮戦記」

2019年9月号 POLITICS [特別寄稿]
by 山岸一生(元朝日新聞記者)

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元朝日新聞記者 山岸一生氏

「参院選東京選挙区に立候補した立憲民主党の新人、元朝日新聞記者の山岸一生氏(37)は、50万票近くを得たが惜敗。知名度の低さと、立候補表明から投開票まで2カ月という出遅れが響いた」

私がもし、今も記者として書いたなら、「ベタ記事」で終わる話。無名の新人の、無謀な挑戦。なぜ戦って、なぜ敗れたのか。お話をさせてください。

「負けた。ああ、勝ちたかったなあ」

7月21日(日)の夜は過ぎ、すでに22日(月)未明。開票センターとして党が用意したホテルの一室で待機していた私は、傍らにいた母に、声を漏らしました。

日本中の選挙区で最後の「当確」が、日本維新の会の音喜多駿さんに出る、少し前。先行して開票された23区で差がつき、まだ開票の続く多摩地域では逆転できないことが、明らかでした。悔しかった。絞り出すようなうめき声は、選挙中に嗄れてしまって、自分の声なのに遠くから聞こえてきました。

それからホールに降りて「敗北宣言」するまでの間、人生で最も濃密だったこの2カ月間のことを、思い出していました。

まさに怒濤の「2カ月間」

5月まで、朝日新聞で記者をしていました。15年間、記者一筋。専門は政治報道でした。2010年に「総理番」として政治部に配属され、民主党政権、野党自民党、安倍政権、沖縄など、幅広く回ってきました。中枢の取材は、確かに面白かった。でも15年に沖縄から帰京してからの4年間、「ここは何かがおかしい」と感じ続けていました。

ひたすら、権力維持に血道をあげる人々の群れ。首相の「側用人」が野党や有権者を罵倒する、ゆがんだ側近政治。記者一人一人は頑張っているが、政権の情報操作に搦(から)めとられるジャーナリズム。1人の国民として、崩れる政治に、危機感を覚えていました。

そんな折、立憲との間をつないでくれた方がいて、4月に今回のお話が出ました。迷いました。37歳で、正社員の職を失うのも怖かった。しかし最後の決め手は、大型連休直前に母が急病で命を落としかけ、将来の「不安」に直面したことでした。「不安」に囲まれた私たちの人生を、私たちに平気でウソをつく政治に委(ゆだ)ねてはいけない。声を、上げよう。連休後、枝野幸男さんにお会いし、挑戦を決めました。

5月23日に立候補の記者会見。そこからの2カ月間は、まさに怒濤でした。

とにかく、時間がない。選対本部長は、かつて「総理番」として取材した菅直人元首相にお願いしました。私の両親と1歳しか違わない菅さんは、「次代を担う世代を勝たせたい」と並々ならぬ決意で、まず「地区割り」を断行。立憲の仲間の塩村あやかさんが先行する中で、山岸は多摩地域と23区北西部に重点を置いて、すみ分けて戦う。菅さんは、限られた期間で、望みうるすべてのことをしてくれました。

政策では、元記者として感じた「政治の闇」に向き合うため、情報公開を柱に据えました。具体的には、最高権力者を監視する「総理大臣記録法」も提案しました。ちょうど同時期に映画「新聞記者」がヒットし、関心の強さも後押しになっていました。

ただ、実際に街頭で重視したのは、政策よりも「物語」です。どうして新聞記者が政治家を目指すのか、今の政治の何が危ないと思ったのか、私たちの不安に政治は応えてほしい……。自分自身の歩みに乗せて、「一人称」で語ってきました。

記者として、美辞麗句でバラ色の政策を語る政治家は、いやというほど見てきました。彼らがひとたび「オフ」の場になれば、どれほど自分勝手だったか。今、政治に問われているのは、政策以前に、政策を語る「その人」が信頼できるかどうか。だから、私は街頭でひたすら自分と立憲の「物語」を、みなさんとシェアしてもらおうと心がけました。「具体策を言え」とのご批判も受けつつ、終盤になるほど手ごたえを感じました。

「翌朝」吉祥寺駅前に立つ

保育現場のつらさを教えてくれた保育士の女性、奨学金の返済に苦しむ若い夫婦、「孫を戦争へ送らないでくれ」と涙を浮かべて手を握ってくれた年配の男性……。自分の「物語」を話すと同時に、多くの方の「物語」を聞いてきました。巨大な東京選挙区、なかなか実感を得づらい中で、お一人、お一人の声が力になりました。選挙戦の最後の数日間、「あなたに期日前で入れてきたよ」とおっしゃってくれる方が急速に増え、少し希望を持てましたが、やはり最後まで苦しかった。そして、敗北。

「私の力不足です」。22日未明、終電後まで、ホテルのホールで待ってくれていたボランティアの皆さんに、心からお詫びをしました。

最後まで一緒に走ってくれたボランティアのみんなは、私の誇りです。最初は「山岸とはどんな奴か」と顔を見に来た所から始まって、ありがたいことに、どんどん輪が広がっていきました。中野に「ボランティア事務所」をつくり、運営をお任せして作業拠点に。私の演説をもとにみんなが作ってくれた動画は、短期間で10万回再生。立憲が目指す「パートナーズ選挙」の一つの形を、示すことができました。

でも、49万6347人もの貴重な声をお預かりしながら、結果を出せませんでした。敗因を数えることはできます。都心部での露出が少なかった。「キャラ」やポスターに工夫の余地はなかったか。多くの議論がありました。ただ、どれか一つで3万票もの差は覆せません。なによりも私個人の訴える内容が、体験が、浅かった。ここが、今の自分の限界でした。

22日未明、ホテルでの敗戦の弁を終えて、家路につきました。15年間積み上げてきた、すべてを手放した。これからのことを思うと、ベッドに入っても、不安が押し寄せて眠れませんでした。でも、なすべきことは一つ。数時間後には、私は通いなれた吉祥寺駅前にいました。「いただいた50万近くもの声を無駄にしない、唯一の道は、あきらめないことだ」。非力をお詫びしつつ、嘘のない政治、私たちの声の届く政治を取り戻すために、皆さんに「次」への挑戦をお約束しました。

これまで記者として多くの現場を見てきましたが、これからは「肩書」のない1人の人間として、現場に飛び込んでいきます。ありがたいことに、敗れてから、*ツイッターのフォロワーが2倍近くに増えています。いただいたすべてのご縁を大切に、家族に感謝し、走っていきます。私たちの「次」の戦いは、もう始まっています。

*@isseiyamagishi

著者プロフィール

山岸一生

元朝日新聞記者

   

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