五輪の夏「風疹・麻疹」は防げるか

抗体不足の年齢層は明白なのに、厚労省は事なかれ主義で無料クーポンの対象を絞った。

2019年9月号 DEEP
by 松浦新(朝日新聞記者)

  • はてなブックマークに追加

東京都内の企業での集団予防接種。この日は88人が3種類のワクチンから選んで受けた

「はい、今日は風疹の2回目ですね。体調は問題ないですか。では、腰に手を当ててください」

都内の大手企業で7月、社員を対象にした「集団予防接種」があった。会場となった会議室には、昼休みの社員88人が問診票を手に次々やってくる。予防接種は「水痘」(水ぼうそう)、「おたふく風邪」と、「MR」という風疹とを防ぐワクチンから、希望するものを打てる。

この日使われたワクチンは、水痘が4500円、おたふく風邪が2800円、MRが6100円だった。この費用と、1人当たり3300円かかる医師の技術料は会社が負担する。水痘は、子どもなら無償で打てる「定期接種」の対象だが、子どもの時にかかった人でも、中年になると抗体が減っていく。そのため、水痘にかかった人の体力が落ちると、「帯状疱疹」が出ることがあるが、これは予防接種で防げる。おたふく風邪は自分の判断で有料で打つ「任意接種」なので、子どもの時に打っていない人がいる。

MRのうち風疹は、1977年から女子中学生を対象に接種が始まったが、男性は79年4月2日以降に生まれた人しか定期接種の対象にはなっていない。このため、40代より上の男性には風疹の抗体を持たない人がいて、最近の流行の原因になっている。妊娠初期の女性がかかると目や耳に障害を抱えた「先天性風疹症候群」(CRS)の子どもが生まれる心配がある。昨年からの流行で、今年に入って埼玉、東京、大阪で計3人のCRSが確認された。埼玉の母親は予防接種をして十分な抗体があったのにCRSになっており、社会全体で予防しないと防ぐことはできない。

会社は経費使い「自衛」

ワクチンで防ぐことができるのだから、打っていない人を対象にさっさと無料接種すればよいのだが、厚生労働省の対応は後手に回り、2000年以降だけでも67人ものCRSが確認される事態となった。厚労省は12月にようやく、1962年から79年までに生まれた男性を無料接種の対象と決めた。国立感染症研究所の調査でも、この年代の男性が職場で感染するケースが多く、そこから家族にも広がるとみられている。

ところが、ここでも厚労省がやることはまどろっこしい。まず、抗体があるかどうか確かめる検査をして、抗体が不十分な人を対象にワクチンを打つというのだ。風疹ワクチンは2回打つので、働き盛りの男性が、3回も会社を休むことになりかねない。抗体検査も血液検査のために針をさすので、心理的な負担を感じる人もいるだろう。対象男性でも、風疹にかかるなどして抗体がある人が8割程度いるという理由だが、一斉にワクチンを打つと、国産ワクチンだけでは足りなくなることが大きな理由とされる。

しかし、MRワクチンは麻疹の流行も防いでくれる。麻疹は今年に入ってから報告数が急増している。感染力が非常に強く、肺炎や脳炎などの合併症で亡くなることもある怖いウイルスだ。日本は2015年に世界保健機関(WHO)が麻疹の「排除」を確認したが、その後も海外で感染した人が持ち帰ったとみられる流行が時々みられる。

風疹も、このところの流行は成田空港がある千葉県や関西国際空港がある大阪府から始まる傾向が強く、海外からの流入が中心とみられる。このまま手をこまねいていると、海外から多くの観戦客が来る来年の東京オリンピック・パラリンピックでは、ワクチンで防ぐことができる病気が日本で大流行する心配が高い。これを意識している一部の会社が、冒頭の話のように、忙しい社員のために集団予防接種をしているというわけだ。

この集団接種を提供するのは、4月にできたばかりのレクタス(本社・千代田区)だ。斧原邦仁社長は「予防接種は公的保険の対象外なので、社員が個人的に受けるとワクチン代とは別に1万円程度の技術料がかかる。集団接種ならこれが低くなり、会社の経費にもなる。社内で集団感染があると仕事にならないので、安いものです」と話す。

「五輪対応者」だけ接種強化

ワクチン接種は流行を抑えるため、結局は社会を守ることにつながる。本来は、公的に負担すべきものだが、厚労省が後手に回っているため、こうした自衛策が出てくる。

ところが、厚労省は、後手に回った風疹対策の効果をさらに限定する動きに出た。今年2月8日になって、当初、62年度以降生まれとしていた対象を、今年度は72年度以降に絞るという自治体向けの手引きを出したのだ。無料接種は、市町村が住民の対象者に「クーポン券」を郵送して、医療機関に持っていくことで受けることができる。

それは、全国共通のクーポン券と受診票を送るよう求める一方、2月末日に対象者を決め、「できる限り3月中を目標に」送るよう書いてある。しかし、2月は役所にとって、すでに次年度予算案ができ、議会に説明をしている時期だ。印刷や郵送手続きの委託をする予算の確保が難しい。埼玉県内のある自治体では、3月には間に合わず、4月に予算を確保して、事業を入札にかけた上で作業を進めたため、発送は6月末から7月はじめになったという。年度内に予算をつけて発注した別の自治体は、入札は形だけで、事実上の随意契約で発注したと明かす。

厚労省は62年度以降の対象者でも希望すればクーポンを使えるとしているため、手引きに関係なく全対象者に発送した自治体もあった。

CRSの子どもを持つ親らで作る「風疹をなくそうの会」の共同代表の1人の可児佳代さん(65)は、82年に生まれた娘の妙子さんがCRSで、ワクチンで防げることを知って後悔した。もう1人の共同代表の西村麻依子さん(36)は妙子さんと同じ年に生まれて、2012年に生まれた娘がCRSだった。可児さんは「孫の代になっても同じことが繰り返されるとは思わなかった」と対応の遅さを残念がる。ようやく流行を無くせるかもしれない対策が打たれるにもかかわらず、厚労省の対応は最後までドタバタ続きだ。

厚労省はクーポン券の送付を72年度以降に絞ったことについて「抗体検査の希望者が集中すると供給不足で混乱が生じる懸念がある」などと説明する。

一方、官邸は来年のオリンピック・パラリンピックに向けて、大会で多くの人と接する業務に就く公務員へのMRワクチンの接種を強化する方針を決めた。しかし、麻疹も風疹も幅広い国民が抗体を持たないと流行する。泥縄の対策に、医師の間には「来夏はワクチンで防ぐことができる病気の大流行が避けられない」との声が強くなっている。

著者プロフィール

松浦新

朝日新聞記者

共著に『負動産時代』

   

  • はてなブックマークに追加