田部康喜 東日本国際大学客員教授 元ソフトバンク広報室長
2020年12月号
LIFE [現地ルポ]
by 田部康喜(東日本国際大学客員教授)
大小さまざま千基以上のタンク群
マイクロバスが進む道沿いに、時間が止まったような無人の民家や商店が風景から遠ざかっていく。耕作放棄地に生い茂った、セイタカアワダチソウの黄色い花が風にたなびいている。晴れ渡った10月下旬の晩秋の外気は冷たいが、窓越しの光は暖かだ。向かっているのは、JR常磐線の富岡駅から30分足らずのところにある、厳戒の施設である。
福島県の太平洋を望む、浜通り地方の双葉町と大熊町をまたぐようにして、東京電力福島第一原子力発電所はある。
福島第一原子力発電所を電力関係者は「1F(イチエフ)」と呼ぶ。地元の人たちの朴訥で柔らかな言葉をすくいあげるとするならば「いちえふ」のニュアンスに近い。かつては郷土の誇りだった施設は、いまも日常のなかに存在する。ここで1日に働いている約4千人のうち、地元の人が6割を占める。
筆者は、「日本で原発に一番近い大学」といわれる、いわき市に本部を置く東日本国際大学の地域振興戦略研究所副所長兼客員教授として2014年から、いわき市とその周辺の農水産業や中小企業のフィールドワークに取り組んでいる。
大地震と巨大津波、そして原発事故に見舞われた、この地域で、事故の直後から福島県や地元の町の指示に逆らっても稲作を続けてきた気骨ある農家や、原発事故後も避難しないで、イチエフに必要物資を納入するなかで、作業に必要な超小型ロボットを開発した中小企業経営者もいる。イチエフの衝撃は、静かに地域を変えようとしている。
日本の原子力政策は、福島第一原子力発電所のメルトダウンによって断絶した。そしていま、原子炉がメルトダウンした1・2・3号機と、定期点検中に水素爆発によって原子炉建屋が破壊された4号機の「廃炉」に向けて、半世紀後の完了を目標とする長い道のりを歩き始めた。友人が主宰する見学会に加えてもらって、「イチエフ」に初めて入った。
「入退域管理施設」において、防塵マスクと軍手、履き替え用の靴下二足、ベスト、頭にかぶる紙製の帽子と線量計を配られる。防護服に着替えるわけではない。
イチエフの350万㎡に及ぶ広大な敷地の中で、いまや96%は「グリーンゾーン」すなわち一般の作業服で働ける。
イチエフの構内に入る前に、ホールボディ・カウンターによって体内の線量を計測する。退出時にも計測があり、異常があれば、原因をつきとめる。あらかじめ述べておくと異常はなかった。見学の申請書に書いた、住所、氏名と、差し出した免許証の照合を受ける。いよいよイチエフの構内に入る。ヘルメットを被りゴム靴を履いて、マイクロバスに乗り込む。
北へ向かって進むと、右手に桜並木が現れる。イチエフが「野鳥の森」や「千本桜」と銘打って緑豊かな発電所を誇った名残である。約千本あった桜は、伐採されていまは400本ほどしか残っていない。敷地内では杉なども切り倒されている。
桜並木を右折して、東側に開けた太平洋につながる港湾施設を目指すと、樹木の大量伐採の謎はすぐに解ける。大小さまざまな青や灰色のタンク群が左右から迫ってくる。
タンクは千基以上に達して、いまも建設され続けている。貯蔵されているのは、構内で発生した汚染水から62種類の放射性物質を取り除いた、処理水である。原子炉のなかに燃料棒が溶けて固まった「燃料デブリ」が存在して、これを冷やす水が放射性物質を含む。地下水や雨水が原子炉・タービン建屋に入り込んだ場合も同様である。
政府は10月末にも、処理水の海洋放出を決定する方針だった。「廃炉道」の里程標がほのかに見えてきたからである。
1号機から4号機が間近に見えるデッキに立つ。それぞれの相貌と、これまでの作業と今後の見通しは異なっている。
水素爆発が最も激しかった1号機
水素爆発が最も激しかった、1号機は建屋の上部が吹き飛んだままの状態なので、大型カバーを23年度には取り付けて、27年度から28年度に保管プールの使用済燃料を取り出す。2号機は24年から26年度に使用済み燃料を取り出す。事故後に取り付けた、ドーム型のカバーが特徴的な3号機は、燃料566体のうち364体の引き上げを完了している。発災直後、使用済み燃料の保管プールの水量が危険水域に達していると懸念された4号機は、すべての燃料の取り出しが終わっている。
「廃炉道」の歩みを着実にするためには、使用済み燃料の保管施設や、燃料デブリの取り出しのための機材の設置場所と取り出し後の保管場所の施設が必要となる。処理水のタンク群を撤去しない限りは、それらの用地は確保できない。
処理水の海洋放出を政府がいったん見送ったのは、地元の漁協を中心とした風評被害の訴えである。焦点は、処理水に含まれている「トリチウム(三重水素)」。水素より中性子が二つ多い。水の形で存在しているので取り出せない。ベータ線を発するが弱くて紙一枚でも遮断できる。構内のドレイン(井戸)からでたトリチウムはいまでも、希釈して港湾に流している。
廃炉推進カンパニー・プレジデントの小野明氏
東京電力ホールディングスの常務執行役で福島第一廃炉推進カンパニー・プレジデントの小野明さんは「(廃炉に向けて)計画的に進められる環境は整った。あとは、デブリの処理などの技術開発と、地域の皆様にいかにして理解を深めていただくかにかかっている」と語る。小野さんは事故当時こそイチエフを離れていたが、20年以上もこの施設で働いてきた。「廃炉道」の終着点を、自らの目で見ることは叶うまい。
見学会を終えて出発点の「入退域管理施設」に戻る。大型バスの20人ほどの若者たちが見学コースに乗り出そうとしていた。東電ホールディングス傘下の事業会社の新入社員たちだ。彼らもまた、先輩たちが踏み固めている「廃炉道」を歩み始めようとしているのだろう。
「核のゴミ」と呼ばれる、高レベル放射性廃棄物の最終処分場の候補地として、北海道の寿都(すっつ)町と神恵内(かもえない)村が受け入れの第一段階となる、文献調査の実施を原子力発電環境整備機構などに申し入れた。
「廃炉道」の先に最終処分場の建設という、さらに困難な道が国民の視界にはっきりと入ってきた。この道は、電力会社任せというわけにはいかない。