世界の肥満人口は10億人を超えた。「リリー」は高笑い。とんでもない大魚を逃した「ロシュ」。
2024年11月号 BUSINESS
肥満症治療薬「ゼプバウンド」
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす――。「平家物語」の冒頭を彷彿とさせる現象が世界の製薬業界で進行中だ。
2023年12月期決算で集計した世界の製薬大手の売上高ランキングはスイスのロシュが672.7億ドルで首位。2位が米メルクの601.2億ドル、3位が米ファイザーの585.0億ドル、4位が米ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J、医薬品部門)の547.6億ドルと続く。
ところが時価総額で比べてみると様相は一変する。9月27日時点の時価総額では米イーライ・リリーの8342.7億ドルがトップだ。2位の米ユナイテッドヘルス・グループは保険会社で、3位のJ&Jは医薬品以外も含めた数値なので除外すると4位につけたデンマークのノボ・ノルディスクが4093.9億ドルで実質2位となる。
売上高で首位のロシュは時価総額が2900億ドル台、2位のメルクは2800億ドル台でいずれも3000億ドルに届かない。3位のファイザーは1648.4億ドルにとどまり、ヘルスケア分野の時価総額ランキングではベスト10圏外に転落した。新型コロナワクチンが好調だった21年末に3300億ドル超の時価総額を誇っていたことを思えば隔世の感がある。
>米イーライ・リリーの製造施設(同HPより)
リリーの時価総額は米テスラの8320.7億ドルをも凌駕し、驚異的な水準だ。
リリーとノボの快進撃を支えるのが肥満症治療薬だ。両社の薬は「GLP-1受容体作動薬」と総称され、もともとはインスリンの分泌が少なくなったり、働きが悪くなったりして発症する2型糖尿病の薬として実用化された。
口火を切ったのはデンマークのノボ・ノルディスク。糖尿病治療薬「オゼンピック」が2021年6月に肥満症治療薬「ウゴービ」としてFDA(米食品医薬品局)に承認され、23年11月には、米イーライ・リリーの糖尿病治療薬「マンジャロ」も肥満症治療薬「ゼプバウンド」として承認された。引き合い殺到で両者は増産体制を敷くと発表した。
体内にはすい臓に対してインスリンの分泌を促す「GLP-1」というホルモンがある。ウゴービは「GLP-1受容体作動薬」というタイプの皮下注射薬で、血糖値を下げる働きがあるほか、中枢神経に働きかけて食欲を抑える作用がある。23年にイーライ・リリーが米国で発売を開始した肥満症治療薬「ゼプバウンド」もウゴービと同じタイプの肥満症薬だが、こちらは「GLP-1」だけでなく同様の効能を持つホルモン「GIP」の受容体にも作用する。
血糖変動を小さくし、エネルギー代謝を高める効果があるうえに、胃のぜん動運動を抑えて胃の内容物が小腸へ排泄されるのを遅らせることから食事の間隔が空く。脳の視床下部に直接作用して食欲を抑える働きもある。この側面に着目してノボやリリーは肥満症治療薬としての臨床開発を進めた。
研究によると、ウゴービ利用者の体重は平均で約15%減った。リリーの発表では、過体重もしくは肥満の患者2539人(平均体重105キログラム)が参加したゼプバウンドの治験で、食事療法や運動と組み合わせた72週間の治療の結果、最も多い用量(15ミリグラム)を投与したグループでは平均21.8キログラムの減量効果があった。
米モルガン・スタンレーは世界の肥満症薬市場の見通しを30年に1050億ドルとし、従来予想の770億ドルから上方修正した。各国の製薬大手やスタートアップが肥満症治療薬の開発に続々と参入している。英調査会社によると、肥満症治療薬開発に取り組む製薬企業は22年時点で約260社に上る。
ノボは2月22日にウゴービを日本で発売した。保険適用で費用は1カ月で1人当たり最大約4万円。ピーク時に年10万人への投与を見込む。リリーは5月8日、厚生労働省に肥満症治療薬「ゼプバウンド」を承認申請したと発表した。
世界でも日本でもノボの方が先行している。にもかかわらず時価総額でリリーが上回る理由の一つが次世代のGLP-1受容体作動薬「オルフォルグリプロン」だ。
日本の中外製薬が初期段階前まで開発した後、2018年に全世界での開発・販売の権利をリリーに譲渡した。契約一時金は5000万ドルだった。現在、リリーは治験の最終段階に入っており、25年にも結果が出るという。
現在実用化されているGLP-1受容体作動薬タイプの肥満症薬は注射薬のみ。オルフォルグリプロンは飲み薬で使い勝手がよい。製薬業界に詳しいアナリストは「33年に世界で416億ドル(約6兆円)を売り上げる」と予想する。
中外は2月、リリーに権利を譲渡した「オルフォルグリプロン」について開発段階に応じて受けとる「マイルストーン収入」が、合計で最大3億9000万ドル(約580億円)になると発表した。販売に応じたロイヤルティー収入は売上高に対して1桁台半ばから10%台前半の割合で受け取る。仮に6兆円の売り上げで料率12%なら中外は7200億円を手にする計算だ。中外は時価総額で国内業界首位に躍り出た。
リリーの大躍進を苦々しい思いで見つめているのはロシュだろう。2002年にロシュは中外製薬の株式の過半数を取得し、中外を傘下に収めた。契約では中外がロシュ製品の日本国内における開発・販売に関する第一選択権を保有し、逆に中外製品の海外での開発・販売については、ロシュが第一選択権を持つと定めた。だがロシュは「オルフォルグリプロン」に対して「糖尿病治療薬に用はない、と関心を示さなかった模様だ」と日本の製薬業界で情報が流れている。
GLP-1受容体作動薬抜きではグローバル競争から振り落とされる。ロシュは23年12月、肥満症治療薬の開発を手掛ける米カーモット・セラピューティクスを最大31億ドル(約4500億円)で買収した。「CT-996」と「CT-388」という2種類のGLP-1受容体作動薬について臨床試験を進めている。
英BBCは今年3月、「世界の肥満人口が10億人を超えた」と報じた。2022年のデータを基にした学術誌ランセットの研究によると、世界には肥満とされる成人が8億8000万人、子どもが1億5900万人いる。潜在的市場は膨大だ。
さらなる追い風も吹く。すい臓だけでなく、心臓や脳、腎臓など様々な臓器の細胞にも受容体が存在し、GLP-1受容体作動薬が作用することが動物実験などで分かってきた。欧米では肥満症治療薬がパーキンソン病や腎臓病、心筋梗塞、脳梗塞のリスクを抑える効果があったという臨床試験の報告が相次ぐ。心臓や脳など様々な臓器の病気に効く「万能薬」としても期待を集めている。
医薬品開発製造受託機関(CDMO)は仕事量増大が見込める。心臓や腎臓の病状改善でペースメーカーや透析が必要な患者が減るかもしれない。食欲の抑制で食料品関連企業の先行きは不透明感が増す。23年10月に小売大手ウォルマートの米国部門CEOが「肥満症・糖尿病治療薬の食欲減退効果で、消費者の買い物の量とカロリーがわずかに減っている」と述べ、大騒ぎになった。
肥満症治療薬は世の中を変える勢いだ。ロシュが逃した魚はとんでもなく大きかったのではないか。