追悼 村瀬 二郎氏(日系二世の米国人弁護士)
2014年10月号 LIFE [ひとつの人生]
8月5日、ニューヨーク市内の病院で、86歳の日系人弁護士がひっそりと息をひきとった。2月22日に妻由枝(享年88歳)の最期を看取ってからおよそ5カ月、妻の後を追った。村瀬二郎。知る人ぞ知る日本の戦後史の生き証人である。
「昭和元禄」――皮肉を交えた造語にかけては右に出る者がなかった元首相、福田赳夫(故人)が、戦後奇跡の復興を成し遂げつつあった日本経済と社会の奢侈と安逸を諌めたのは、日本が初の東京五輪に沸いた1964年のことだった。
その後、日本経済は80年代末のバブル絶頂期まで、拡大の一途をたどった。それに伴い、日本企業は海外進出を加速させ、ジャパンマネーの洪水に日米経済摩擦が深刻な政治問題となっていった。
当時、米国進出を考える企業も、米国で問題を抱えてしまった企業も、さらに日米経済交渉に携わる官僚や政治家たちが、こぞって頼りにしたのが移民二世の日系米国人、村瀬だった。
彼は、高度成長時代の「日本株式会社」の顧問弁護士のような存在だった。
77~81年のカーター民主党政権下で大統領通商諮問委員に就いたのを皮切りに、国務省多国籍企業諮問委員、日米欧委員会(現三極委員会)委員などを歴任。米国の政財界に強い影響力を持った最も成功した弁護士の一人だった。
その影響力を頼って、日本の総合商社はもとより、米国に進出している電機、自動車などの大手企業や政治家たちがひっきりなしに村瀬の事務所を訪ねた。この中には、安倍晋三首相の父、晋太郎やソニー創業者、盛田昭夫もいた。
村瀬が盛田と邂逅したのは、まだワシントンの名門ジョージタウン大学に在学していた50年代に遡る。ロースクールに通いながら、村瀬は国務省のラジオ放送「ヴォイス・オブ・アメリカ」(VOA)で編集兼翻訳を務めていた。そこに大きなリール式のテープ・レコーダーを抱えて売り込みに来たのが盛田だった。
「これを使ってみてくれ、すべて日本製の録音機だ」
名刺にはソニーの前身、東京通信工業と印刷されていた。盛田が持ち込んだ録音機を見て、放送局のエンジニアたちは「日本にこんなものは作れない。ドイツ製の部品を組み立てただけだ」と鼻で笑ったが、分解した結果、日本製ということが分かり、村瀬は我がことのように盛田の手を取って喜び合った。
村瀬は盛田の語るソニーの未来像、そして日本の将来像に共鳴し、それから2人の親交は40年以上に及んだ。89年、ソニーは大手映画制作会社コロンビア・ピクチャーズの買収に乗り出す。凄まじいジャパン・バッシングの嵐の中、日米関係を憂慮した村瀬は、ワシントンなどに何度も足を運んでは日本の真意を説き、火消しに走り回った。
それからおよそ四半世紀。出井―ストリンガーと続いた経営失敗の後遺症で苦境に喘ぐソニーは、ダニエル・ローブを総帥とする米国投資ファンド「サード・ポイント」の株主提案に翻弄される。このファンドの代理人弁護士を務めたのが村瀬の長男悟(55年生まれ)なのだ。
昨年、来日したローブの傍らに悟の姿があった。悪名高い「ハゲタカファンド」と同一視されるのを嫌ったローブは、官邸、日銀、財務、経産、大手銀行などを回っては「物言う株主」が日本の企業体質を改善し、経済に貢献することになる
などと説いて回った。その際、父二郎から受け継いだ人脈が悟を助けたのである。
村瀬の父九郎がニューヨークの土を踏んだのは1911年(明治44年)。日露戦争に軍医として従軍したが、麻酔もなく手足を押さえて手術し、阿鼻叫喚となる日本の医学の後進性を痛感し、ニューヨークのメディカル・スクールで最新の医療技術を学ぼうと渡米したのである。
実は村瀬の義母は、幕末に幕府の勘定奉行や江戸町奉行、外国奉行として辣腕を振るった幕臣、小栗上野介(忠順)の一族から嫁いだ女だった。慶応4年に処刑された小栗を司馬遼太郎は「明治の父」と讃えたが、薩長政権のもとで小栗は逆臣の代表だった。小栗一族を嫁にした九郎に栄達の道は閉ざされていた。それが渡米を決意したもう一つの理由である。
夫婦2人で新天地をめざしたが、妻は世界的に流行したスペイン風邪に感染し、出発を目前に急逝してしまう。
大恐慌を目前にした28年、後妻みよの二男として村瀬は生まれる。4歳で目撃した大恐慌のニューヨークは、ボロをまとった子供たちが物乞いする光景だった。
それを村瀬は終生忘れない。
日本で教育を受けさせたいという父の強い願いから、村瀬は兄とともに、サンフランシスコから船で日本に渡航する。いったん帰国したが、36年から再び日本に戻り、終戦を母方の実家のある兵庫県芦屋で迎えた。当時は旧制芦屋中学の生徒だった。
日本を愛してやまない村瀬は、日本を敗戦に追い込んだ米国に畏敬の念を持ち、その自由な気風を尊んで、米国人としての祖国愛は誰にも負けなかった。
村瀬も長男悟を中学1年から高校3年まで東京の私立成蹊学園で学ばせた。誰もが顔見知りのような学園で1学年上に在籍していたのが安倍晋三だった。その父晋太郎が率いる福田派「清和会」の外交アドバイザーを村瀬は引き受けることになり、安倍家と村瀬家との交わりは以来30年余になる。
客をしゃれたラウンジに招待しては、村瀬自らマイクを握って「アメリカ・ザ・ビューティフル」を朗々と歌ったが、その一曲を終えると、軍歌「月月火水木金金」が続いた。最後にマイクを強く握りしめ、遠くを見つめて歌うのが童謡や唱歌だった。
村瀬が歌う「鯉のぼり」は、祖国日本を思う愛惜の情に溢れていたという。
(敬称略)