「次の民主主義」は
どんな姿か

2015年11月号 連載 [永田町 HOT Issue 第3回]
by 大塚 耕平(民主党参議院議員)

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民主主義とは何か。民主主義陣営の中心を自負する米国の在日大使館HPに「民主主義の原則」という解説がある。以下、若干引用したい。


「民主主義は、多数決原理の諸原則と、個人および少数派の権利を組み合わせたものを基盤としている。民主主義国はすべて、多数派の意思を尊重する一方で、個人および少数派集団の基本的な権利を熱心に擁護する」


「一見すると、多数決の原理と、個人および少数派の権利の擁護とは、矛盾するように思えるかもしれない。しかし実際には、この二つの原則は、われわれの言う民主主義政府の基盤そのものを支える一対の柱なのである」


「民主主義社会は、寛容と協力と譲歩といった価値を何よりも重視する。民主主義国は、全体的な合意に達するには譲歩が必要であること、また合意達成が常に可能だとは限らないことを認識している。マハトマ・ガンジーはこう述べている。『不寛容は、それ自体が暴力の一形態であり、真の民主主義精神の成長にとって障害となる。』」


7つの「基本要素」

米国大使館HP「民主主義の原則」はなかなか奥深い。そもそも「デモクラシー(民主主義)」の語源は古代ギリシャ語のdemos(人民)とkratia(権力)を合体したdemokratia。国家(集団)の権力者が構成員全員であり、意思決定は構成員の合意によって成り立つ政治体制を指す。


反対語はaristos(優れた人)とkratiaを合体した「アリストクラティア(aristokratia)」。貴族制や寡頭制を意味する。要するに、権力者が構成員全員か、一部かの違いだ。


やがて、扇動的政治家の言説に大衆が影響され、ソクラテスが処刑されると、プラトンやアリストテレス等が「デモクラシー」を「衆愚政治」と批判。プラトンは「哲人政治」を主張した。


古代ギリシャに続く古代ローマでも王政が廃止され、元老院と市民集会が権力を有する「共和制」が支持された。皇帝は非世襲となり、市民集会で選ばれ、「プリンケプス(市民の第一人者)」と位置づけられた。


近代になると「デモクラシー」は自由主義の重要な構成要素となる。啓蒙思想だ。フランス革命や米国独立戦争を通して「デモクラシー」は近代市民社会の根本原理となり、議会制民主主義が普及。ホッブス、モンテスキュー、ロック、ルソー等の時代である。


18世紀米国ではdemocracyとrepublicがほぼ同じ概念を示す言葉として定着。日本の幕末期にも、2つの単語をともに「共和制」と訳す場合があった。


20世紀以降、「デモクラシー」は全体主義の反対概念として定着。その一方、明らかに独裁・専制下の国でも「民主国家」を自称している場合もある。


そこで、米国政治学の権威ロバート・ダール(1915~2014年)は、「民主主義」の質をチェックする7つの基本要素を示した。


第1に行政官吏の公選制、第2に自由で公正な選挙、第3に普通選挙、第4に行政職の公開性、第5に表現の自由、第6に代替的情報(反対意見)へのアクセス権、第7に市民社会組織の自治。


さて、日本はどうだろうか。第3の普通選挙以外は、いずれもその基盤が脆弱になっていると感じるのは筆者だけだろうか。


組織なき組織化パワー

古代ギリシャ、古代ローマ、近代啓蒙思想、現代議会制民主主義と、「デモクラシー」は進化している。


そして、今また新たな進化の芽。ハンガリーのインターネット民主党のように、技術革新を活用して直接民主制への復古を目指す政党も出現している。


インターネットを活用した民主主義は直接民主主義とも間接民主主義とも異なる。MITメディアラボ所長の伊藤穣一氏は「創発民主主義 (Emergent democracy)」と命名している。多くの個人が参加することによる政治的事象の発生に関わる概念だ。「組織なしでの組織化パワー」と表現されることもある。


「カウンターデモクラシー」「リキッド(液体)デモクラシー」等々、様々な造語が誕生しているが、「次の民主主義」の姿は定まっていない。


「アラブの春」や「SEALDs」はその一事象と言える。伝統的権威に束縛されない自由人と分散的ネットワークが、インターネット等の「シビック(市民)メディア」を活用して予測不能の事象を引き起こしている。


米国オバマ政権はこうした新潮流に敏感であり、「We the People」というサイトを立ち上げた。国民からの嘆願署名がサイト上で10万人以上集まると、政府が対応を検討するという。署名が足りなくても対応することもある。


日本の政府や政治家が考える民主主義はレガシー化している。米国政府の柔軟性、創造性と比べると、儀式としての選挙を重んじているに過ぎず、民意の本質には何ら関心がないように思える。


民意に鈍感になれば、総じて全体主義的になる。今の日本がまさしくそうだ。


英国人作家、ジョージ・オーウェルが1949年に出版した全体主義的社会を描いた『1984年』。


同小説は70以上の言語に翻訳され、全体主義・管理主義的な思想や社会のことを「オーウェリアン」(オーウェル的世界)と呼ぶようになった。


日本の民主主義が「オーウェリアン」に向かうのか、それとも「次の民主主義」を模索するのか。


哲人政治を担う賢人も見当たらず、代議制もうまく運営できない日本の「次の民主主義」はどんな姿か。日本独自のものかもしれないし、世界の魁(さきがけ)かもしれない。


日本の民主主義は劣化していくのか、「次の民主主義」を感じさせる胎動が始まるのか。


米国大使館HP「民主主義の原則」をもう一節、紹介しておきたい。
「民主主義国は、全権が集中する中央政府を警戒し、政府機能を地方や地域に分散させる。それは、地域レベルの政府・自治体が、市民にとって可能な限り身近で、対応が迅速でなければならないことを理解しているからである」

著者プロフィール
大塚 耕平

大塚 耕平(おおつか・こうへい)

民主党参議院議員

早大政経卒、同院博士課程修了。日銀を経て参院議員(3期目)。内閣府副大臣、厚労副大臣等を歴任。早大・中大院客員教授。

   

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