ロシアの報復か。反ドーピング機関に侵入、特例薬物使用の個人データを公開した狙いは。
2016年11月号
GLOBAL
by オーウェン・ギブソン(英ガーディアン紙チーフスポーツ記者)
9月13日、世界反ドーピング機関(WADA)は、覆面ハッカー集団「ファンシーベア」が、各国選手のドーピング検査に関する情報を一元的に管理する同組織のデータベース「ADAMS」に侵入し、個人情報が流出したと発表した。リオ五輪に向けて国際オリンピック委員会(IOC)に与えられたログイン認証情報を、スピアフィッシング攻撃により不正に取得したとされる。
覆面集団ファンシーベアが選手データを暴露したウェブサイト
ファンシーベアは5月に米国民主党全国委員会(DNC)にもハッカー攻撃を仕掛け、内部資料を大量に盗んだとされる集団の一つで、米航空宇宙局(NASA)や国防総省、エネルギー省などの政府機関やメディアのシステムにも侵入しており、ロシア政府のダミーと見られている(ロシア政府報道官は否定)。
その正体がどこの誰であれ、どの国の組織であれ、WADA侵入の任務はすでに十分達成されたとみていいだろう。連日のように世界のスポーツ紙を飾っていたロシアの国家ぐるみドーピング疑惑の記事を最終面から蹴落とすのが目的だとしたら、見事に功を奏したからだ。
ファンシーベアは流出情報をウェブサイト(#OpOlympics)で公開、中には病気や怪我の治療のために禁止薬物の使用が認められている「治療使用特例(TUE)」など選手の医療情報を含む機密情報が含まれていた。これが再び世間の耳目を集めることになり、より狡猾な目的――WADA独立委員会のディック・パウンドやカナダ人弁護士リチャード・マクラレンが告発した、ロシアが産業規模で実施していたという国家ドーピング計画についての議論自体を沈黙させることに成功したのだ。
最初はただのデータ暴露に見えたが、次第にその隠れた陰湿な意図が明らかになってきた。TUEによる合法的な薬物使用とロシアの国家ぐるみ不正ドーピングを同じ土俵に立たせ、議論を攪乱して白黒を見えにくくしてしまったのである。
英国ではリークをきっかけに、TUE使用が判明した自転車競技のスーパースター、サー・ブラッドリー・ウィギンズの倫理観を問う議論が湧き起こった。ウィギンズは自転車選手としては単独で史上最多の計8個の五輪メダルを持ち、リオ五輪でも金メダルを獲得した英国のヒーローである。彼が所属していたプロサイクリングチーム「チーム・スカイ」は、ウィギンズが11、12、13年シーズンの主要大会の直前に強力なステロイドの一種であるトリアムシノロン注射を打つことを許可した。
スカイがWADA規則に違反したとの糾弾はないが、倫理的には問題だと激しい批判の対象となった。スカイは次第に厳しい質問の矢面に立たされ、答えに窮して今や「すべて規則に従って行動してきた」と言う以外は口を閉ざしている。
確かに、スポーツ界を嘲笑うようなロシアのはるかに大規模な国ぐるみドーピングと、TUEシステムの透明性の問題を同列に論じるのには無理がある。かといって、どちらも問題にしなくていい、ということにはならない。リオ五輪のロシア参加では各競技団体に判断を丸投げしたIOCが逃げ腰状態のなかで、世界のスポーツ界はロシアの不正ドーピングが突きつける問題に頭を悩ます一方で、TUEにも向き合わなくてはならなくなった。
TUEのリーク情報では、多数のリオ五輪のスター選手の名が挙がった。女子体操競技で4個の金メダルをとった米国のシモーネ・バイルズ、女子テニスのセレーナとビーナスのウィリアムズ姉妹や、英国男子長距離走のモハメド・ファラー、女子ボクシングのニコラ・アダムスらである。
当然ながら、ほとんどの選手はとりたてて問題を指摘されていない。トップアスリートと喘息の因果関係については、特に持久力を必要とするスポーツでは以前から指摘されていた。今回の漏洩に何らかの効用があったとしたら、こうした状況に理解が進んだことかもしれない。
英国の競輪選手カラム・スキナーのように「隠すことは何もないし、医療情報を公表する用意がある」と豪語する選手もいるが、今回のリークで疑惑を招くケースがあるのも事実だ。至極当然だろう、ここ何年もスポーツ界や反ドーピングに関わる人々の間で、TUE手続きが不正利用されるケースが知られていたからだ。
WADAは「TUE手続きには絶対の自信をもっている。選手は言い訳する必要はない」として一歩も後には引かない構え。だが、多くのスポーツ関係者は、これに関しては何年も前に率直で十分な議論をしておくべきだったと感じている。
TUEのデータすべてを公にして、TUE関連のシステムを完全に透明化すべきだとする声が高まっている。明らかに選手の医療情報に関する守秘義務などの問題が出てくるが、システムの信用を回復するにはそれしか手がないかもしれない。だが、メディアがTUEシステムを丹念に調べながら曖昧さを残すようだと、ハッカーの思うツボだ。彼らのお先棒を担ぐことになってしまう。
WADAは一連のハッカー攻撃をロシア発と確信しているが、9月14日にアテネで開かれた欧州サッカー連盟の臨時総会では、出席したロシア関係者の素振りから真相を窺い知ることはできなかった。
ロシアスポーツ相のヴィタリー・ムトコや2018年にロシアが開催するワールドカップの組織委員長アレクセイ・ソロキンはロシアの関与を否定したが、その様子からあながちウソとも言いきれない。
ウラジーミル・プーチン大統領は、ロシアの関与を同様に否定した一方で、ハッカーは「まっとうな問題を提起した」とさりげなく繰り返した。その意味は、西側諸国も負けずに東側と同じようにズルをしているではないかという暗黙の非難だ。これはファンシーベアがサイトに載せた“挑戦文”の主張と一致している。国家ぐるみのドーピングが暴露されてロシアは守勢に回ったが、世界のスポーツ界への権威を回復しようと巻き返しを狙っているのだろうか。
ファンシーベアの正体が特定されることはないだろう。どんな悪質な意図があるのかは定かではないが、彼らの介入でこれまで精査されることがなかった反ドーピングシステムの陰の部分に、スポットライトが当たったことは間違いない。
ハッカー集団が虎視眈々と機密データを狙う新しい世界では、もはや「部外秘」はなきにひとしいと言えよう。(敬称略)