編集後記「某月風紋」

2017年4月号 連載
by 宮

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東電復興本社代表の石崎芳行さん

被災した上野敬幸さんのご自宅(2112年7月撮影)

浜通りから2千人を超える人々が避難した郡山市内の避難所(2011年4月23日、撮影/宮嶋巌)

浜通りの惨禍。津波に襲われた新地町市街(2011年5月28日)

南相馬市内の避難所(原町第一小学校体育館、2011年7月3日、撮影/宮嶋巌)

南相馬市における死者は1019人、行方不明者は111人(3月1日現在)を数える。

2193日目の七回忌――。東電福島復興本社代表の石崎芳行さん(63)は、南相馬市萱浜(かいばま)の上野敬幸さん(44)のお宅を弔問した。上野さんは父母と当時八つの長女と三つの長男を津波で亡くした。捜索を始めた矢先に1Fが水素爆発。避難を拒んだ上野さんは消防団の仲間と、警察も自衛隊も来ない中、40以上の泥まみれの仏様を掘り起こし、自らの手で母と長女の亡骸を安置所に運んだ(父と長男のご遺体は見つかっていない)。それから石崎さんは行方不明になっていた大熊町の木村汐凪(ゆうな)さん(当時七つ)のご遺骨が、がれきの中から見つかった現場に花を手向けた。父の紀夫さん(51)は、津波で父と妻と次女の汐凪さんを失った。事故当夜、避難指示が出た大熊町では警察も自衛隊も満足な捜索ができず、木村さんは立入禁止となった自宅周辺の海浜(1Fから約4キロ)へ200回以上通いつめ、自主捜索を続けてきた。DNA鑑定でわかった愛娘の首やあごの小さなお骨が、父の手に戻ったのは昨年12月のことだった。

午後2時46分――。天窓から光が差し込む1F新事務本館で黙禱を捧げた石崎さんは約700人の職員に語りかけた。「東電は絶対に許さないが、一人ひとりの社員は福島のために尽くしてくれて有難うと言っていただけるようになった」「しかし、非常にリスクの大きい原子力というエネルギーを、東電に扱う資格があるのか。『技術的に安全だ』『ここまでやりました』と言うだけでは全く通用しない。原子力を扱うプロらしさ、凛々しさが必要だ」と訴えた。

石崎さんは浜通りに単身赴任して5年目。事故直後は土下座もしたが、つい最近、復興商店で出会った役場の方から「あの時はひどいことを言ってゴメンね。これからは古里を取り戻すために一緒にやっていこう」と声をかけられ、心が震えたと言う。七回忌の救いである。

   

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