ビザ不発給や代表取材拒否など執拗に干し、日本政府に「メディアの躾が悪い」と上から目線。
2018年10月号 GLOBAL
鼻っ柱の強いスポークスウーマン、華春瑩・中国外交部報道官
Photo:AP/Aflo
産経新聞が中国政府の“兵糧攻め”に遭い、ぎりぎりの攻防を続けている。
産経は一連の中国報道が反中国的と中国政府に断じられ、国会に当たる全国人民代表大会(全人代)などの取材証発給を拒否される事態が相次ぎ、紙面で抗議を続けてきた。
今年に入って産経バッシングは秋霜烈日を極め、6月には日本新聞協会主催の訪中団に加わった産経記者に対し中国がビザ発給に難色を示したため、新聞協会は訪中団自体をキャンセルした。直近では8月29日に北京で開かれた日中高官会談でも、冒頭の代表取材に産経が抽選で選ばれると、中国外務省がこれを拒否。在北京日本人記者会が取材をボイコットしている。
この一件は外交問題にも発展。会談翌日の30日、官房長官の菅義偉が定例会見で「表現の自由を含む自由、基本的人権の尊重、法の支配は普遍的な価値で、いかなる国でも重要だ。極めて遺憾だ」と批判した。これに対し中国外交部スポークスウーマンの華春瑩はその翌日の31日に「理不尽な抗議を我々は受け入れられない。日本政府は、日本メディアに対して教育と制限を行うべきだ」と強く反発した。
安倍官邸の司令塔として国内の新聞、テレビ支配ににらみを利かす菅長官が「表現の自由」とは笑止だが、「日本政府はメディアの躾がなってない」と言わんばかりの華の超「上から目線」も凄まじい。日中間にはマスコミに対する認識の差が深くて暗い河の如く横たわっていることを物語る。新聞、テレビ(NHK除く)とも民間の日本に対し、中国は人民日報、新華社、中国中央テレビをはじめ全てが党の喉であり舌でしかないから「教育と制限」などと言いだす。
こうした空中戦の一方、中国政府は毛沢東の持久戦論よろしく既に産経、読売など日本の右寄りマスコミに“兵糧攻め”を続けてきた。
産経は8月1日、上海支局長人事を発令した。「▽兼編集局上海支局長 編集局中国総局長兼論説委員室論説委員藤本欣也」。北京常駐の中国総局長が上海支局長を兼務、上海には記者が常駐しなくなった。紙離れから新聞各社は減収減益に喘ぎ、経営基盤の脆弱な産経は青息吐息だが、この兼務発令は経営状況によるものだけではない。
「前任者は2008年に赴任、既に在外勤務10年を迎えていました。人道問題だ、帰任したいとしきりにこぼしていました」(上海駐在民放記者)
特派員勤務は各社とも3年から4年が標準。10年にも及ぶ在外勤務は極めて特殊だ。産経は12年には後任を内定、中国政府にビザを申請してきたが、6年間発給されることなく、前任者の上海勤務は10年の長きにわたったのだ。
「水面下で産経編集幹部は中国大使館に“陳情”を続けていましたが、全く効果がなく、発給しない理由も明らかにされなかったと聞いています」(全国紙上海支局長経験者)
後任のビザが6年も発給されなかったため、産経は支局だけ残し、上海周辺でニュースが発生した際には北京常駐の中国総局長、総局員が出張ベースで対応する、という苦渋の選択を迫られたのが、この辞令発令の真実なのである。
中国政府の“兵糧攻め”は実は今回が初めてではない。
「産経、読売にはほぼ同時期に北京に赴任できなかった中国総局長がそれぞれ一人いる。総局長なき総局があったんです」(全国紙中国総局長経験者)
産経は13年、生え抜きの中国専門家に中国総局長を発令。この総局長に対し中国政府は3年間もビザを発給しなかった。
一方の読売は12年5月、在東京中国大使館一等書記官の李春光がスパイ活動を行っていたとする“スクープ”を報じ、これを事実無根とする中国政府との間で対立。総局長交代期を迎えた13年、後任の発令を受けた記者に対し産経と同じくビザを発給しなかった。一度も北京に赴任できず、北京発で記事を発信できぬまま、2人の中国総局長は任期を空しく終えた。
その後、読売、産経に対して総局長のビザが発給されるようになり、“兵糧攻め”は終わったかに見えたが、産経に対しては上海支局長のビザをめぐり“兵糧攻め”が続いていたのだ。
「産経に対しては東京の中国大使館関係者が、一連の報道に大変失望していると漏らすのを度々耳にしたことがあります。ビザ不発給はそうした不満の表れ以外の何物でもない」(同上)
実は中国政府と産経は一時期、同床異夢の蜜月時代があった。産経は1967年、支局長だった柴田穂が文化大革命をめぐる反中国的報道を理由に北京から追放され、その後は日本大手各社の中で唯一、台北に支局を開設し独自路線を歩んだ。しかし、中国の経済成長と国際社会における存在感の拡大から、産経は90年代末期に北京復帰を模索。対する中国も台北を拠点に反中報道を展開する産経を取り込む必要を感じて98年、双方は北京復帰で合意するに至った。
が、産経は北京を「中国総局」と位置づけ、台北をその配下の一支局とする中国政府の条件を呑まざるを得なかった。96年には初の総統直接選挙を実施し、民主化の進む台湾に取材拠点を渇望していた日本報道各社も「産経方式」を踏襲して台北に取材拠点を開設。日本の報道機関全体が「台湾は中国の不可分の領土であり、中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政権」とする中国政府の主張を認めたことになる。「名を捨てて実を取る」対応は、実は中国の統一戦線工作にまんまと乗せられたことにもなる。
12年に中国共産党総書記に就任して以来、報道・言論機関統制を強化してきた習近平の強権は、中国の内外を問わない。ビザを人質にした日本の報道機関に対する“兵糧攻め”は正にその事実を証明している。
6月の新聞協会訪中団キャンセル、8月の日中高官会談代表取材拒否の際には、日本各社は珍しく足並みをそろえて中国政府と対峙できた。しかし、中国政府が今後もビザを使って統制をさらに強めてくることは確実である。その時、“社利社略”にとらわれて抜け駆けをする社は出てこないのか? 重大な覚悟と決断を迫られる秋が近づいている。(敬称略)