2019年8月号 連載
南相馬小高区の県道沿いの風景。先祖代々の自宅に戻った人は、建物は新築し、普通に生活しているようだ。しかし、若者はいない(写真は、鈴木浩さんの提供です)
3.11から8年、原発事故で立ち入り禁止だった警戒区域は、現在幹線道路が通過できるようになっている。福島市から国道114号線沿いに、爆発時のプルームが広がったため、今でも線量計の数字が高くなる。南相馬市から浪江町に南下する山沿いの県道が通れるようになり、いまだに地震で壊れたまま放置された建物に胸が塞がれる。8年前に古里を追い出された人たちは、先祖代々の住み慣れた土地を守るために戻った人と、避難先で新たな生活を始めた人に分かれる。浜通りは津波と原発事故に見舞われた。社交辞令で「津波だけだったらよかったのに」と言われると遺族は愕然とする。
小高区の除染土仮置き場。市議会議員の家の隣の田畑である。議員は自宅には戻らない
よその人からは、原発事故のほうが人的被害が大きかったように感じられるのだろう。実際に放射能で直接亡くなった人はなく、津波では大勢の人が亡くなった。津波被災地は危険区域に指定され、先祖代々の土地に居住することができないが、インフラの復旧だけは進んでいる。津波被害の遺族は普段は記憶に蓋をしているが、決して癒やされることがない。一方、原発被災者は先祖代々のアイデンティティ喪失の痛みを抱えている。
小高区で戻らないと決めた住人の家は取り壊され更地になっている
相馬在住 一級建築士 鈴木浩