集団は「見えざる免疫」を生む
2020年6月号
LIFE [病める世相の心療内科㊶]
by 遠山高史(精神科医)
絵/浅野照子(詩画家)
新型コロナウイルス蔓延への対策が人と人との接触をできるだけ減らす以外にないとしたら、人と人との距離が近い都市はもっとも危ない場所になる。しかし、各国の都市部に感染爆発をもたらしているのは、ただ過密さだけなのだろうか。
15年ほど前にベトナムのハノイとホーチミン、そしてニューヨークの精神医療の視察に出かけた。いずれも人が密集する都市だが、庶民の生活スタイルはかなり異なっていた。当時のホーチミン市では、食事やお茶の時間になると家族や近所の人たちが家の外でテーブルを囲んでいた。バイクに5人もの人がしがみつきながら乗っていることが珍しくなく、交差点に流れ込んだバイク集団のどれが先頭を通るかは信号によらず流れの勢いが決め、案外事故がなかった光景を見た覚えがある。一方、ニューヨークでは普通の民家であっても玄関が簡単に開かれることはなく、閉めたままでのチェックがあり、政府機関でもない小さな福祉関係の建物に入るときでも必ず金属探知機を通らねばならなかった。人と人との関係は情緒的なものを排除して成立しているように思われた。
こうした事情は15年を経た今も大きく変わっていないはずである。一言でいえばベトナムにはなお密なコミュニティが社会の基盤として存在しており、ニューヨークのそれは希薄であることが、コロナ対策の効果の違いにも影響しているように思えるのである。
今や人が直接触れ合うのはもっとも避けるべき行為とされ、ネットでの交流が推奨されている。当面は致し方ないとしても、密なコミュニティそれ自体はウイルス蔓延を助長しているとは言えず、むしろその逆の作用も大きいのではないか。
コミュニティとは、地域におけるご近所付き合いのように一定のルールや情緒的な信頼関係によって結ばれた社会を言い、ベトナムの都市にはそれが色濃くある。しかしニューヨークは密集地でありながら、人と人との距離は遠い離散的社会である。人々は困難に際しても行政からの助けしかあてにできず、それも十分とはなりえない。
5月6日の読売新聞で、感染の制圧を見通せないニューヨークと裏腹にベトナムでは感染者が271人しかおらず、ほぼ制圧に成功しているとあった。それが一党独裁による強権支配のお蔭であるとの意見に私は与しない。もともとベトナムは元の大軍を打ち払い、フランスやアメリカを追い出すなど、長い歴史上大きな敗北を経験していない。緻密で勤勉な民族性によると、元神戸大教授の中井久夫氏が言っていた。人と人との情緒的信頼で結びつく社会構造こそが、その民族性をはぐくんできたと思われる。社会の一員のわずかな変化もとらえ、対応できる強さの根源になっているのだろう。
1匹の毛虫を殺せる殺虫剤を10倍にして、10匹寄り集まった毛虫にかけてもほとんど死なない。群れを成す生き物には普通にみられる現象で人間も例外ではない。集団は見えざる免疫を生むのである。
人を見たらコロナと思えと、あるお笑い芸人が言ったという。こういう他者を初めから疑ってかかるセリフは、相互信頼で成り立つコミュニティでは決して生まれてこない。政治家は言う。行政の力には限界があり、一人一人の心掛けが必要であると。その心掛けは、今や日本で失われつつあるコミュニティによってしかはぐくむことはできない。