追悼 松田昌士さん 享年84歳 (元JR東日本社長)

松田といえば囲碁を抜きに語れない。「下手の考え休むに似たり」の早碁。伝記作家の故小島直記先生との早打ちではアマの双璧だった。

2020年7月号 BUSINESS [ひとつの人生]
by 江藤尚志(JR東日本スポーツ社長)

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松田昌士さん 元JR東日本社長

波乱の人生の最期は安らかな顔――。娘さん、お孫さん2人、横山秘書と私の5人で黄泉の国に旅立たせたのは5月19日の午後のことだった。1月に肝臓がんが判明、余命1年の告知を受け、二度目の入院から1カ月余。平成15年に最愛の郁子夫人を亡くしていた。私は、彼がJR東日本の副社長、社長、会長、相談役時代の20年間、秘書を務めた。

松田といえば囲碁を抜きに語れない。「下手の考え休むに似たり」の早碁。伝記作家の故小島直記先生との早打ちではアマの双璧だった。棋力は松田が上、凡そ10分で「オワ」、「もう一番」となる。秘かに元名人に腕前を尋ねると、「免状七段、時に七級?の手もある」と苦笑された。死ぬまでタバコを離さなかった。これも一服すると、「オワ」だった。

「通訳の会」の皆さんに囲まれご満悦

平成5年社長就任、秋にJR最初の株式上場。翌年海外投資家にIR(会社業績説明)で14日間の地球一周に出た。海外では「現地の食と地酒を呑む」を自ら実践、毎晩ウイスキー三昧で日付変更まで続く。翌朝時差なく起床。「国鉄人はドメ(スティック)のため海外で不味い日本食を有り難がる。故に国際人になれない!」と、部下たちを一喝。以来私は「彼の呪縛」から、現地の食と酒を好む。

博識と感心することが度々あったが、機嫌の悪い時が多い。ある時、奥様から「夫はお腹がすくと子供になる!」と教わった。仙台での講演後、昼食抜きで新幹線に飛び乗った。私はトイレに向かうふりをして郡山駅長に連絡、停車1分間に立ち食いソバをドアから差し入れてもらった。食後はすこぶる上機嫌だった。

自ら「北海道の野人」と称し、好んで「拓」と揮毫した

「国鉄を民に変えたオレの責任。勲章は官のものだから」と頑なに拒んできた。死の床で「(松田の)子孫が誇れる先祖がいたと(死亡)叙勲申請をする」と言うと、「わかった」と頷いた。単純で分かりやすい人、自ら「北海道の野人」と称し「拓」の字を好んで揮毫した。

情熱を注いだ東京駅復原、開業百周年の駅長に私が就く。「大正文化を忘れるな、辰野金吾の創建時に戻す」と宣う。強烈な意思と子分思い(ご褒美)を感じた。平成14年『なせばなる民営化』を出版。「ことを行うに際しての果敢さ、事前の分析の正確さ、発想力の未曽有なこと」と、石原慎太郎氏は評した。復原の方向を決めた当時は運輸大臣、正式決定の平成11年には東京都知事であった氏とのご縁の賜物だ。本人曰く「東京駅上空(容積率)を売り復原資金500億を調達」。自ら「プランナー」と称していた桁外れの「拓の野人」の真骨頂だった。

想い出のニューヨーク出張。親分とリムジンに乗る筆者(右)

四七日忌――。閻魔大王の補佐を希望していたおっさんは野球帽を被り、ウイスキー、たばこと碁盤を携え「待たせたな」と愛妻郁子さんの元へ。早速小島先生と烏鷺(うろ)の争いだ。大恩人の中曽根大勲位に「閣下、松田は只今到着」と、ご挨拶する日はまもなくだろう。合掌。

著者プロフィール

江藤尚志

JR東日本スポーツ社長

前JR東日本取締役東京駅長

   

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