「高すぎて話題作の版権獲得を断念した」……。翻訳本の出版ビジネスが円安地獄に直面。
2023年10月号
LIFE
by 貴船かずま(批評家)
上下巻合わせて3千円の文庫本「三年間の陥穽」(ハヤカワ文庫)
海外のベストセラー本が読めなくなる。円安の影響でそんな恐れが出てきた。日本で翻訳して出版するための出版権を取得するためのアドヴァンス(前払印税)が高騰しているためだ。加えて原料価格などの高騰による紙の値上がりもあり、本の価格そのものも上がっている。手軽に買えた新書も文庫本も1千円超えが当たり前になってきた。世界的な話題作が出版されても、購入することを躊躇してしまう、そんな消費者心理も生まれつつある。
「全米でベストセラーになった世界的スターの自伝本の版権の獲得に乗り出そうとしたが、円安の影響でアドヴァンスが高騰してしまい手が出せなかった」。翻訳出版を手がけるある出版社の編集者が打ち明ける。「このまま円安が続けば海外の話題書を読めなくなってしまうだろう」
出版社が海外の版権を取得する場合、著者本人もしくは版権を管理するエージェントにアドヴァンスを支払う(本を刊行した後に著者に印税を支払う日本の仕組みとは正反対)。話題作だと当然このアドヴァンスの額が高くなる。基本は米ドルをベースに交渉するため、円安が進めば当然支払いは増える。
文芸、SF、ミステリーなど海外文学を出版する早川書房によると、円安の影響でアドヴァンスは従来比10%アップしたという。世界規模の人気作家の場合には、各社がこぞってオークションに参加して数億円にのぼることもある。例えば1億円の場合、1千万円分を「余分」に支払わなければならなくなる計算となる。
過去に出版経験のある作家の作品であれば、円ベースで10%ダウンで交渉すればいいため、高騰によって版権が買えないということはないだろう。しかし、バラク・オバマ元米大統領のような世界的な大物政治家や、発売前からベストセラーとなった韓国のアイドルグループBTS(防弾少年団)の自伝本などの版権獲得を競い合うような場合は、アドヴァンスの高騰によって手を引く出版社が出てきてもおかしくない。前述の編集者の言葉はその兆候の表れだろう。
さらに昨年来から出版界で深刻になっているのは紙代の値上がりだ。ある編集者は「ここ1年で本文用紙が3度も上がった」と話す。リアル書店を歩いたり、Amazonなどネット書店を検索すれば実感してもらえるはずだ。かつては800~900円で買えた新書が、今や1千円超えは当たり前になった。500円前後で買えた文庫本も同じで、中でも海外の翻訳本の高さは目を見張るものがある。例えば北欧ミステリーの人気シリーズ最新刊「三年間の陥穽」(ハヤカワ文庫)は1冊の値段が単行本と同等の1500円、上下巻合わせて3千円。単行本1冊にまとめてくれた方が安いのではないかと思えるほどだ。もはや「安い文庫本を買おう」だとか「単行本が文庫本になるまで待とう」といった消費者心理も働かないだろう。
こうした状況であるにもかかわらず、驚くべきことに年間の新刊は約7万点で1日あたり200点が刊行されている。出版不況と言われて久しいにも関わらずなぜ新刊が大量生産されるのか。売れないからどんどん刊行し、数冊でも当たればいいと考えているからなのだろう。それは小売店での販売価格を指定し事実上拘束する再販売価格維持制度に支えられているから成り立つ商売なのだが、こんな理にそぐわない経営が永遠に続くはずもない。
今こそ重い腰を上げて出版界は構造上の問題を自覚して改革に取り組まないといけない。円安はその気づきを与えてくれる僥倖と捉えるべきだ。