新連載「Hawkeye」/「インフレへの適合」急げ/今こそ「デフレ脱却」宣言/武田淳・伊藤忠総研代表取締役社長

2024年9月号 BUSINESS [シンクタンク 「Hawkeye」]
by 武田淳(伊藤忠総研代表取締役社長兼チーフエコノミスト)

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7月上旬から8月5日にかけて、為替や株価が大きく動いた。ドル円相場は1ドル=162円から一時141円台まで20円も円高が進み、日経平均株価は4万2224円から3万1458円へ1万円強も下落した。きっかけが日銀の利上げであることは間違いないが、要因はそれだけではない。

今回の円高は、7月11~12日の政府・日銀による為替介入が起点となり161円台後半から157円台まで約4円円高が進んだ。その後、日銀の利上げ観測で更に円高が進行、7月31日の利上げ決定で一時150円を割れた。その夜には米国で9月利下げが確定的となり円高が加速、米国景気の減速を示す指標が相次ぎ、141円台に至った。つまり、20円の円高のうち最大の理由は米国景気減速で8円強、日銀の利上げは7円強、残る4円程度が介入ということになる。

日経平均株価は、日銀が利上げを決めた7月31日、寄り付きは3万8141円だったが利上げ発表後に急伸、3万9102円で引けた。その結果、この時点では最高値から3千円強の下落にとどまっていた。ところが、米国株が半導体関連の調整に景気減速懸念が加わり大幅に下落したこと、円高が加速し輸出企業の業績悪化懸念が強まったことから、8月5日にかけて7千円も下落した。

つまり、今回の円高・株安の要因は、日銀の利上げに米国の景気減速懸念や株安も加わった複合的なものだったわけである。

一歩踏み込んだ「植田日銀」

改めて今回の日銀の決定が市場に与えた影響を整理すると、第一に、実勢0.15%分の利上げながら、大方の予想に反した点でサプライズを与えたと言える。

第二は、継続的な利上げを意識させたことである。植田総裁は今後も「経済・物価情勢に応じて、引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していく」とし、一部で根拠なく信じ込まれていた政策金利「0.5%の壁」論を一蹴した。

第三は、日銀がこれまで影響なしとしていた円安を利上げの理由の一つとし、「日銀は円安を放置する」という市場の見方を一変させたことである。

一方で、今回の利上げは、日本経済をデフレ脱却に向かわせるという日銀の強い決意の表れだとも言える。日銀は、今年3月のマイナス金利解除時点ではデフレ脱却の見通しが立ったという程度の判断だったが、今回はデフレ脱却に向けた軌道に乗っている、という評価にまで進めた。

この間、円安の進行に対し、政府や市場からは日銀に利上げを求める声が強まった。円安による輸入品価格の上昇が個人消費の回復を遅らせ、デフレ脱却が遠のくためである。今回の利上げは、日銀がこれまでの考え方を曲げてまで円安への配慮を示し、植田総裁が会見で政府との協調について触れた通り、そうした期待に応えるものであった。日銀としては、景気の回復を阻害する行き過ぎた円安を修正し、デフレ脱却を確実にするため、早期利上げに踏み切ったということであろう。

8月6日以降の金融市場は、落ち着きを取り戻しつつある。ドル円相場は146円台まで円安方向に戻し、日経平均株価は3万5千円台を回復した(8月9日現在)。日銀内田副総裁が8月7日の講演で「金融資本市場が不安定な状況で利上げをすることはない」と利上げに慎重な姿勢を示したことも、市場に安心感を与えた。

このまま為替相場や株価が落ち着けば、日本経済への影響は限定的であろう。その理由は、第一に、現状程度のドル円相場が多くの企業にとって想定の範囲内だということである。日銀短観6月調査によると、企業が想定する為替レートは今年度下期で平均1ドル=144.59円である。そのため、輸出企業の多くは業績下方修正を迫られず、投資活動や雇用への悪影響も限られる。

第二に、株価下落の影響も限定的とみられることである。現在の日経平均株価は年初の3万3288円を上回っており、含み損を抱える投資家がさほど多いわけではない。さらに言えば、日本では株価の上昇が消費を押し上げる「資産効果」が高額商品・サービスの一部にとどまるため、株価下落に伴う「逆資産効果」も当然限られる。

そもそも、行き過ぎた円安の修正が物価の上昇を抑え、実質賃金を嵩上げして個人消費の回復を後押しするという当初の目標を忘れてはならない。実質賃金の上昇こそが、デフレ脱却を確実にするために残る最後のピースである。すでに春闘賃上げを反映し賃金の上昇ペースは加速しているため、あとは円安による輸入品価格の上昇を抑え込めば良い。それを確実にするのが円安の修正である。

一方で、円高急進で輸出への逆風が懸念される。ただ、モノの輸出に関しては、これまでの円安でも数量の押し上げ効果がなかったため、影響は限られよう。サービス輸出の中核であるインバウンド需要にはマイナスの影響が避けられない。162円から140円台半ばへ約1割円高が進んだことにより、同程度の落ち込みは覚悟しておく必要があろう。

それでも、インバウンド需要の落ち込みを国内消費の増加でカバーすれば足りる。昨年度のインバウンド需要6.2兆円に対して、国内消費は328兆円と53倍である。仮にインバウンドが1割減っても、国内消費が0.2%増えれば、マクロ的にはカバーできる。1割の円高で物価が押し下げられ実質所得が増加し、消費者マインドが多少上向けば、十分におつりがくる。

結局、今回の市場の動きは、実態経済に比べ行き過ぎていた円安と高過ぎた株価を合理的な水準に調整したに過ぎない。その背景の一つとして、ヘッジファンドの日本株買い円売りポジションの解消が指摘されており、実際に投機筋の円売りポジションは7月上旬の史上最高水準から8月6日には約2年ぶりの水準へ縮小している。市場の変動の大きさや速さに一部のメディアなどが過剰反応した印象が強いが、実体経済への非合理的な悪影響を遮断するためにも冷静な判断と対処が求められよう。

そのためには、今、日本経済がどのような姿を目指しているのか、改めて認識しておく必要がある。それは言うまでもなく、デフレから脱し一定の物価上昇と金利のある正常な経済であり、当然に利上げが伴い、副産物としての円高もある。円高は輸出産業にとって逆風だが3年前の110円台ほどではなく、円安で収益が圧迫された内需産業には追い風となる。何よりも物価上昇は売上や賃金の増加につながる。

もはやデフレではない

8月2日に発表された政府の「経済財政白書」では、デフレ脱却の定義を「物価が持続的に下落する状況を脱し、再びそうした状況に戻る見込みがないこと」だとし、デフレに戻らない条件は、賃金の持続的な上昇、人件費や仕入コスト上昇の価格転嫁、物価上昇の広がり、予想物価上昇率の高まりだとした。そして、いずれにおいても条件を満たしつつあるとし、現在は、デフレに後戻りしない状況を作り出せなかったこれまでとは異なる、と結論付けている。

同時に、残された課題として、中小企業における賃上げや価格転嫁、公的分野における賃上げや公共料金の引き上げを指摘している。つまり、デフレ脱却はもはや政府が自ら解決できる部分が多く、中小企業対策を含めて政府や産業界が然るべき対応を進めれば、確実なものにできるということである。

日本経済がデフレ脱却、すなわちインフレを目指すのは、その良い面が勝るからであろう。経済財政白書は、安定した物価上昇により、企業は価格設定や売上計画が容易となり、家計も将来の生活設計が立て易くなるため、投資や消費を最大化できるとしている。実際にデフレ時代に比べコスト増の価格転嫁が進み、賃金は上昇している。金利も上昇するが、値上げや賃金上昇が将来の債務負担を軽くする面もある。

もはやデフレではない。無用な混乱を避けるためにも、意識を「デフレとの戦い」から「インフレへの適合」へ転換する必要がある。

日銀は一歩踏み込んだ。政府はその梯子を外すことなく、広く産業界や国民の理解を促すため「デフレ脱却宣言」を躊躇せず、望ましいインフレの実現を目指す覚悟を示すべきだろう。

※新連載Hawkeye(鷹の目)は、国内外のシンクタンクのエッジの効いた論客が筆を競い、独自のアングルと洞察から持論を述べる連載企画です(編集部)

著者プロフィール
武田淳

武田淳(たけだあつし)

伊藤忠総研代表取締役社長兼チーフエコノミスト

伊藤忠総研・代表取締役社長/チーフエコノミスト。大阪大学工学部応用物理学科卒業、法政大学大学院経済学研究科修了。1990年第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。日本経済研究センター出向。みずほ銀行総合コンサルティング部を経て、2009年伊藤忠商事入社。マクロ経済総括として内外政経情勢の調査業務に従事。19年伊藤忠総研・取締役/チーフエコノミスト。2023年4月より現職。テレビ東京「モーニングサテライト」レギュラーコメンテーター。日経新聞「十字路」レギュラー執筆者。

   

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