老人と「押し寄せる葛」
2020年9月号
LIFE [病める世相の心療内科㊹]
by 遠山高史(精神科医)
絵/浅野照子(詩画家)
耕作放棄地を借りて農業らしきものを始めたことは前回触れたが、最大の難関は草取りであると知った。今のところ週1日だけ畑に行くが、綺麗に刈ったはずの草が1週間で立派に伸びているのだ。その逞しさは圧巻で、例えばジャガイモを植えていてもたちまち草で覆われてしまう。草刈り機ではジャガイモの株まで取り払いかねないから、結局手作業となる。雑草と呼ぶのが畏れ多くなるほどの逞しさである。
草は場所を選ばず、農道にもはびこり、急いで刈らねば道かどうかも定かでなくなる。そういった草のなかでも、繁殖力が旺盛で特に手を焼くのが葛である。農地のはずれにある川の土手に桜の若木を5本ほど植えたが、いつの間にか、葛に覆われ地にねじ伏せられ、草の海に飲み込まれつつあった。慌てて葛を取り払い、下草を刈り、支柱を建てて何とか桜を守ったが、葛をはじめ草の勢いはすさまじいものがある。
襲ってくるのは草だけではない。キャベツやブロッコリーなどの葉物は油断しているとモンシロチョウの幼虫に葉脈だけにされてしまう。トウモロコシはいよいよ収穫かというときに烏の大群に襲われ、めぼしいものはほとんど食べられてしまった。野兎も出没し、しっかり囲っておかないとどの野菜も食べられてしまう。タヌキの足跡も確認した。都市部からそれほど離れてもいないのに、いずれ猪も現れそうである。
自然は押し寄せてくるのだ。こういった自然の力に対峙するのでなく、もっと有効に使えないものかと思いつつ作業を進める。ふと知人が自分の故郷の田畑の利用を私に依頼してきたことを思いだす。さすがに遠いため、請け負えなかったが、心を動かされたのは、そこにはまだ里山の形が残っていたからである。
昨今の農業はグリーンハウスなど管理された環境をあらかじめ人間が作り、自然を排除する形で作物を作ることが多くなっている。しかし、もともと日本人は自然と調和する形で農業を推し進めてきた。その典型が里山で、巧みに猪や猿やクマなどの野生動物の侵入を防ぎつつ共存しながら、豊かな水源を保証し、安定した稲作を可能にした。しかも、緑が織り成す箱庭のような美しい景観と、夏には蛍の飛ぶ夜を演出したのである。すなわち里山は日本の自然と人とが対立することなく調和を達成した傑作である。
だが、もはや多くの里山は荒れ果て、日本から消滅しつつある。人も減り、守るにしても採算が合わない。目下自然と格闘している私にして、里山が自然の力をうまく利用して成立していることに改めて気づかされたのである。
もはや農薬のせいで日本の川にはメダカもタガメも少なくなっている。たまに見かけるカタツムリも妙に小ぶりである。オタマジャクシもいない田んぼから、うろうろ道路を横切るのは外来種のミドリガメだけである。これでは調和どころではない。それでも夏の日、熱中症などものともせず、老人は葛を刈る。ふと紫の花から、淡いが高雅な香りがしてくる。それは自然の奥深さを感じさせる、里山の香りでもある。今どき多くの子供たちはハウスものの野菜のように自然から隔絶させられて、いささか野性味に欠けていると年寄りは思う。昔、炎天下の運動場で熱中症などで倒れる子がそんなにいただろうか。願わくば、子供らがこの夏、空調の効かないハウスの外に出でて葛の花の香りを嗅ぐ機会がありますように。