母・典子は「このままでは死んでも死にきれない」とまなじりを決し、意気盛んだという。母は悲し、されど母は強し。
2021年12月号
LIFE [されど母は強し]
by 長谷川学(ジャーナリスト)
亀田俊孝・典子夫妻(1991年夏)
11月3日、93歳の亀田典子が実の息子の亀田隆明によって、71年間暮らした自宅から追い出された。
実母追い出しを強行した隆明は69歳。日本有数の医療機関、亀田グループ(職員約5000人)の総帥にして、グループを統括する医療法人「鉄蕉会」の理事長である。
隆明は、昨年から今年にかけて、隆明ファミリーによるグループ乗っ取りをたくらみ、双子の弟の信介(三男)と省吾(四男)をグループから追い出した。信介と省吾は、グループの中核医療機関の亀田総合病院と亀田クリニックの院長をそれぞれ務め、グループ内外の信望を得ていた。
母・典子は隆明の非道を諫めたが、隆明は聞く耳を持たないどころか、逆に鉄蕉会の顧問から典子を外し、退職金も支払わないと通告した。鉄蕉会の懲罰委員会で典子を処分しようと企てたこともある。
故俊孝氏が描いた典子像(1949年秋、婚約時代)
追い出しに先立つ11月1日、隆明は、鉄蕉会理事長名の「退去」通知書(FACTAオンラインに掲載)を典子に送り付けた。
曰く「本会が貴殿へ貸与していた社宅につきましては、令和3年8月1日以降、貴殿は当該社宅に居住する権利はありませんので、令和3年11月30日までに社宅を退去するよう通知致します」「退去されない場合には、貴殿に対し、令和3年12月以降は、損害金としてしかるべき金額を支払うよう請求することになります」
出ていかなければ損害賠償訴訟を起こすぞと、実の母親を脅したのだ。
「典子さんは、頭はしっかりしていますが、足腰はすっかり弱り、疲れやすく家で横になっていることも多い。93歳の実母を住み慣れた家から追い出すなんて、あまりにむご過ぎます」(典子の友人)
登記簿によると、典子の住んでいた鴨川市東町の土地は、典子の夫、俊孝の死去を受け、1991年に隆明ら息子4人が相続。4人は2002年に鉄蕉会に土地を売却した。この土地には典子の住まいと隆明夫妻の住まいがある。典子の友人によると、もともとの亀田家の母屋などを、俊孝・典子夫妻が建て替えたものという。現在はいずれも鉄蕉会の所有、つまり社宅になっている。典子は鉄蕉会に賃料を払い、かつての自宅で暮らしてきたのである。
典子が暮らした建物は、グループ内で「鉄蕉館」と呼ばれている。玄関前に、樹齢百年を優に超える蘇鉄(芭蕉)が生えていることにちなんだものだ。鉄蕉館は、亀田家の戦後の躍進の舞台である一方、亀田家が背負う宿痾を象徴する建物でもある。
東京の開業医の娘だった典子は、敗戦の5年後、22歳でこの家に嫁いだ。典子が自費出版した『俊孝とわたし』によると、戦後の農地改革などで土地を失い、亀田家はひどく困窮していた。俊孝は、お見合いの席で「いまの亀田家は泥船。残されたものは重い暖簾と、因習とかしきたりという馬鹿げたものだけ」と典子に正直に打ち明けた。因習に縛られた田舎の旧家に嫁ぐことに典子の実家は反対した。だが「どんな人にも、どんな地域に住む人にも、同じように医療を受ける権利があり、医師はそのために努力すべきだ」と語る俊孝の人柄やビジョンに典子は強く惹かれた。俊孝と結婚した典子は、その後、俊孝と二人三脚で亀田家を立て直し、現在の巨大医療グループの礎を築いていく。
結婚当時の亀田家の当主、つまり典子にとって舅に当たる俊雄は東北帝大医学部の卒業。俊雄は、家父長主義の権化のような人物で、岩手医専(現在の岩手医大)卒の俊孝を「お前なんか医専出じゃないか」と揶揄したり、男尊女卑を露わに自分の妻や典子を「ふん」と鼻であしらうことが多かったという。
この俊雄の歪んだキャラクターが、孫に深刻な陰を落とす。1951年、典子は長男の俊忠を出産した。俊雄は俊忠を「亀田家の11代目の大事なお世継ぎ」と呼び溺愛した。典子の友人が語る。
「俊雄は、俊忠を殿様扱いで育てました。俊雄は俊忠の言うことは否定せず、すべて容認しました。俊雄は、自分が選んだカトリックの幼稚園に俊忠を通わせ病院の事務長に送迎させた。俊雄の薫陶を受けて育った俊忠は、慈恵医大の学生時代から銀座のクラブや祇園で豪遊。祖父直伝の放蕩癖が原因で、俊忠は、のちに鉄蕉会理事長を解任されます」
対照的に、俊忠の1歳下の隆明は、俊雄にいつも軽んじられた。
「俊雄は『お前は跡取りのスペアだ』と隆明を蔑み、隆明が俊忠と同じ幼稚園に通うことも許さなかった。こうした扱いに俊孝が怒り、俊雄に食ってかかるのを典子さんが泣いて止めたこともしばしば。この祖父から守るため、典子さん夫妻は小学校入学までの一時期、東大医学部助教授をしていた典子さんの兄夫婦宅に隆明を預けたこともあります」(同前)
父を囲む4兄弟。左から省吾、信介、隆明、俊忠(1990年)
1967年に俊雄は鉄蕉会理事長を退任し、俊孝が理事長に就任する。俊孝と典子は、俊忠、隆明、信介、省吾の4人を麻布中学、麻布高校、医大に進学させた。
「隆明ら4人の息子たちは医大で奨学金を借りた。典子さんの母方は資産家で、典子さんは自分の私財を売り払い隆明らの奨学金の返済に充てた。また隆明夫妻は軽井沢の別荘の改築費も典子さんに借りました。ところがそこに典子さんを一度も招かなかったそうです。古くから亀田家に出入りしている地元の人たちは、こうした経緯をよく知っており、親を追い出した隆明のことを『恩知らずの人でなし』と怒っています」(典子の別の友人)
俊雄の悪影響という負の側面はあったものの、世間一般に比べ、隆明は両親に愛され、甘やかされて育ってきたように見える。それにもかかわらず隆明は老境に差し掛かった69歳の現在も、酒に酔っては「俺は親に愛されなかった」と愚痴るのだという。とんだ親不孝の甘ったれだ。
医大を卒業後、隆明は心臓外科医になったものの「俺は医者に向いていない」と言って、バブル期に不動産やホテル事業に湯水の如く金を使い、ことごとく失敗。その尻拭いを弟2人に押し付けながら、弟たちに感謝の一言もかけなかった。
「放蕩者の長男、俊忠の退任により理事長になった次男の隆明は、運転手付きの理事長専用車センチュリーやレクサスの後部座席にふんぞり返り大実業家気取りでした。鴨川在住にもかかわらず、理事長専用車に『品川ナンバー』をつけさせることに執着するなど、驚くほどの見栄っ張りです。その一方、医療のことは双子の弟(信介と省吾)に任せ切りにしてきたので、医療現場のことは何もわかっていません」(亀田グループ職員)
隆明の投資失敗などがたたり、亀田グループの経営が傾いた2000年に助っ人として鉄蕉会の理事に加わった公認会計士の竹下敬臣が著書の中で興味深いことを書いている。
竹下は、当時の俊忠理事長、隆明副理事長らについて〈大言壮語・法螺吹き。リスクを念頭に置かずに計画し、到来したピンチにすぐ動揺する。金融機関等の言動に過剰に反応して無駄な喧嘩をする〉と評する一方、母親の典子について〈さすが一族をまとめてきた大奥様〉と畏敬の念を示しているのだ。
この当時、典子は72歳。竹下は、理事会で「理事が高齢化していて、理事会で激論を闘わせるに忍びない。経営立て直しは4兄弟でやるべきだ」と述べ、典子と叔父、俊孝時代の大番頭ら高齢理事の退任を提案した。
〈「ママを排除しろ」、私は大声で囁いた。女性が経営に口を出して成功した試しはない。多分聞こえたのであろう。4兄弟の母親は私を名指しして「今回の救世主は話が単純で分かりやすい。この助言による再建に期待したい。この地で、この病院を維持できれば本望である。一族経営にはこだわらない」と宣言して、叔父たちとともに潔く理事を辞めた。さすが一族をまとめてきた大奥様である。最後の演説の迫力に恐れおののいた。私の話が単純と語ったのは、彼女だけだった〉
実は、典子の夫の俊孝が最も期待していたのは、長男、次男ではなく3男の信介だった。亀田が初めて救命救急科を開設したとき、東大の整形外科の医局にいた信介を俊孝は呼び戻した。信介は約40日間、一度も家に帰らず、当直室に泊まって24時間態勢で対応した。俊孝は、医療と福祉を車の両輪と捉え、「信介、お前の性格が、福祉に対して一番適性がある」と話し、1987年に設立した社会福祉法人「太陽会」の初代理事長に信介を据えた。
一方、「看護力なくして医療はあり得ない」という典子の理念は4男の省吾が引き継ぎ、省吾は亀田看護専門学校長や学校法人「鉄蕉館」の理事長に就任した(隆明が来年3月いっぱいで省吾を理事長、学校長から解任することを決めたのは既報の通りだ)。
典子やグループ職員らの反対を押し切り、なぜ隆明は双子の弟を粛清したのか。これについて隆明の長女の奈々は「たぶんコンプレックスだよ」と周囲に漏らしたことがある。隆明を間近で見てきた娘の観察は恐らく正しいだろう。
母、典子は隆明を理事長にした自らの判断を悔い、信介解任後の昨年暮れ、鉄蕉館で「隆明、俊忠へ 母より」という手紙を書いた。「あなた達の信介、省吾に対する理不尽な背信行為は、私は絶対に受け止められず、許すことはできません」「地位とお金への固執、私欲の強さ、そして極端な家族主義は私達の目指してきた全ての人々の幸福のために努力し続けるという博愛の精神と対極にあります」
だが典子の諫言を隆明と俊忠が無視したため、典子はやむを得ず手紙のコピーを友人、知人、取引先に郵送し、隆明の暴走を食い止めようとした。それに対する隆明の仕返しが鉄蕉館からの典子の追放だった。
『内紛 巨大病院の一族』(由井りょう子著・世界書院)
10月20日、『内紛 巨大病院の一族』(由井りょう子著・世界書院)という小説が出版された。亀田が舞台と見られるこの小説で、主人公は、長男、次男について「自分たちは特権階級だという意識も強い」、「生まれも育ちも選ばれた人間だから、ふつうの人々が働いている時間にゴルフ三昧であっても、高級車を乗り回してもいいのだ、と心底思っているのだ」と嘆いている。
典子は鉄蕉館を出て、鴨川市内の介護付き住宅に入った。友人によると、典子は「このままでは死んでも死にきれない」とまなじりを決し、意気盛んだという。母は悲し、されど母は強し。(敬称略)