『完全版知恵の七柱 1』
2008年10月号
連載 [BOOK Review]
by 石
アラブの衣装に身を包み、ラクダを駆って、アラブ軍の先頭に立ち、敵陣に突進する若きイギリス人。久しぶりにピーター・オトゥール主演の映画『アラビアのロレンス』を思い出した。戦争のヒーロー、ましてやアラブの独立という悲願のために助力するロレンスの姿は、日本でも多くのファンを集めたものだ。
アラビアのロレンスとは第一次大戦中、オスマントルコに抗して立ち上がったアラブ諸族の戦いを指導したイギリスの情報将校、トマス・エドワード・ロレンスである。そのロレンスが戦場でメモした日記をもとにまとめたドキュメンタリーが『知恵の七柱』。冒頭、「私固有の役割は小さなものであった」、「まがい物の指導者を演ずることを引き受けた」と書いている。
ロレンス自身はヒーロー扱いを望んではいなかった。アラブの反乱では、イギリス側が戦後の統一国家樹立を約束していたが、ロレンスはそれが方便であることを知っていた。それでいながら、自ら「最後の勝利のときに狂ったようにアラブの先頭に立つことで」、アラブの主張が入れられるかすかな望みを託したと説明している。
『知恵の七柱』は大戦後間もなく書き上げられたが、原稿の大半が盗難に遭い、記憶を頼りに再執筆、2年がかりで補正、加筆された。その後、さらに改訂を加え、25%ほど短縮し、ロレンスの死後、この簡約版が『知恵の七柱』として刊行された。簡約版の好評で版元は完全版の出版に消極的だったため、版権消滅後の近年、75年ぶりに完全版が日の目を見ることになった。東洋文庫には簡約版が全3巻で収録されているが、今回の完全版は全5巻を予定しているという。比較してみると、圧縮しすぎた簡約版より完全版のほうが分かりやすく生き生きしている。
完全版も、フサイン(フセイン)を盟主にした1916年の反乱蜂起から18年のダマスカス入城までを描いている。考古学者でもあったロレンスの文章の魅力は、観察者としての確かな目と、精緻な表現力にある。アラブ側の指導者や側近から、イギリスの将校まで、冷静に相手を見極め、的確な人物評価をしてみせる。
第1巻ではアラブの概説、反乱までの経緯を述べた序説と、ロレンスが反乱の指導者と認めるフサインの三男ファイサル(後の初代イラク国王)との出会い、アラブ軍の集結までが描かれ、派手なシーンはない。にもかかわらず退屈しないのは、例えばファイサルを「その身に備わった魅力とその無思慮、隠しても、悲哀を帯びてそれとなく現れる弱さは、彼を追随者たちの偶像に仕上げていた」と評する表現力の妙である。
「初めのうちは灰色の小石だらけで……ついにほとんど混じりけのない白砂のみとなり、……砂の粒はきれいで磨かれている。それが日のきらめきを捉えるのは、日光を反射する小さなダイヤモンドのように強烈で」。彼の観察眼は砂漠など自然描写にも活かされ、一瞬にして読者を90年前のアラブに降り立たせる。
ロレンスが撮影した「ヤンブーに退却するファイサル軍」など、当時の写真が挿入されているのも貴重。第2巻以降が待ち遠しくなるはずである。