『スギハラ・ダラー』
2010年3月号
連載 [BOOK Review]
by A
北朝鮮の精巧すぎるニセ札を題材にした前作『ウルトラ・ダラー』から4年、江湖の渇を癒す「ダラー」シリーズの第2作が世に出た。前作と同じく、外交とインテリジェンスが織りなす「手嶋ワールド」のフィクションだが、単純な続編ではない。読者も本書でようやく、このシリーズの真の主役が見えてくる。
日本をこよなく愛し、金沢や京都の茶屋街で優雅に遊ぶ英国情報機関員スティーブン・ブラッドレーはいわば影絵であって、実はドルそのもの、マネーこそがこのミステリーの主役なのだ。
この本の楽しみ方は、まず参考文献から眺めることだ。第二次大戦中の独ソ、終戦工作、民族問題、旅券発給に関する日本外務省資料とともに、レオ・メラメドの自伝Escape to the Futures(邦訳は絶版)が並んでいる。フューチャーズに「未来」と「先物」の意味が二つあるのに気づけば、あなたの読み筋はもう完璧と言っていい。
第二次大戦初期の1940年、リトアニアの日本領事館で外交官、杉原千畝が、ポーランドから逃れてきたユダヤ人難民6千人にビザを発給して救った「日本のシンドラー」の逸話はよく知られている。当時8歳のメラメドも難民の中にいて日本経由でアメリカに渡った。彼が後年、シカゴ・マーカンタイル取引所のドンとなり、「金融先物の父」と呼ばれるようになったのだ。本書は彼をモデルにした「国境を越えて逃れようとするマネー」の物語と言っていい。
「とてつもない着想が稲妻のように閃いた。戦後世界の覇者ドルを金融先物商品として、このシカゴ・マーカンタイル取引所に上場できないだろうか」。登場人物のこの言葉は、金融先物というマネーのアバター(分身)がなぜ生まれたかを如実に物語る。
通貨の固定相場制とは、国境の枠内に縛りつけられたマネーのことだ。1971年、ニクソン米大統領はドルの変動相場制移行を宣言した。ベトナム戦争の重荷で固定相場が維持できなくなったからだが、同時にマネーは国境を越えた。国境なき民の末裔、メラメドに「無国境マネー」の壮大なチャンスが到来したのである。
金融先物が誕生する前にも、冷戦下のソ連が保有するドルの運用先としてロンドンに「ユーロダラー」市場が誕生していた。これもドイツ系ユダヤ財閥の一族が、亡命先の英国で生んだ発明品だ。吉田茂や白洲次郎とも親しかった「ユーロダラーの父」ジークムント・G・ウォーバーグは、「ドルのマザーマーケット」ウォール街の陰で、ロンドンの金融街シティーをドルのオフショア、すなわちデリバティブ(派生)市場として蘇生させたのである。
シカゴのユーロダラー先物はその延長線上にある。そしてこの国家と貨幣の相克こそ、金融先物などのデリバティブ商品の淵源なのだ。「デリバティブは全面禁止にしろ」というが、国家と貨幣の双面神はそう簡単に切り離せない。
ロビンソン・クルーソーが18世紀資本主義の「基準神話」だとするなら、デリバティブで高度化した21世紀資本主義の「基準神話」があっていい。手嶋氏が挑んだのは、マネーの根幹に潜むミステリー(神秘)なのだから。