『鴎外の恋人』
2011年1月号
連載 [BOOK Review]
by 石田修大
電子書籍が話題の今、珍しくもないが、NHKハイビジョン特集での放映と同時出版のマルチメディア戦略という。ただし、従来ならテレビを見逃したから本で読もうというところ、オンデマンドでテレビも後から見られますという新味の加わった商法である。
森鴎外の処女小説『舞姫』発表から120年という節目にぶつけた企画。小説の中のエリスという貧しいドイツ人踊り子のモデル、すなわちドイツ留学から帰国した鴎外を追って、日本までやって来た恋人の正体を追い求めたドキュメンタリーだ。といっても、彼女の名前は既に、当時の船客名簿に「エリーゼ・ヴィーゲルト」とあることが解明されており、一方ベルリンの不動産記録から「アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト」との研究もある。
テレビ番組の演出も手がけた著者は、鴎外らの著作やドイツの古記録にあたり、「エリーゼ」と「アンナ」が同一人物であることを解き明かし、その実像に迫る。きっかけは東京の本郷図書館鴎外記念室に展示されていた15センチ四方のモノグラムの型金だった。
M、Rと、鴎外の本名・森林太郎のイニシャルが組み合わされたモノグラムは、恋人が鴎外に贈ったハンカチ入れに刺繍したものであり、型金はその際、使ったらしい。その型金に彫られた85個の×印(クロスステッチ)をなぞって、アンナのフルネームのイニシャルA、B、L、Wを発見した著者は、これを手がかりに謎解きに乗り出す。
オンデマンドのテレビ版も見たが、さすが手慣れた演出で飽きさせない。鴎外やアンナが過ごしたドイツの町並みや下宿先を訪れ、再現ドラマを交えて、わかりやすい謎解きドラマになっている。
テレビ番組をベースにしたという著書のほうは、鴎外の家庭環境や人となりを紹介し、現代の読者には理解しにくい鴎外らの漢詩の解説、同行者の証言、検証過程の説明も加わって、時に迷路に引きずり込まれるような錯覚に陥る。だが、従来より踏み込んだ漢詩解釈で、鴎外のアンナに対する強い思いを立証するなど、心理の襞に分け入った内容には、文章ならではの興味をひかれる。
興味深いのは「演出家は人間を描き出すのに、風貌、話し方を考える」というテレビマンならではの考え方である。残された資料だけでは追い切れない鴎外とアンナの関係についても、理詰めだけでなく、直感や飛躍した発想で迫ってみせる。鴎外が命名にこだわったという次女・杏奴(あんぬ)や、三男・類(るい)の名は、断腸の思いでドイツに帰国させたアンナ・ルイーゼを明らかに意識しているとの指摘には、感服を含めてニヤリとさせられる。
冒頭、モリオウ貝ってどんな貝なの? と聞く女子高生がいるとのエピソードが振られている。そのこと自体は驚くにもあたらない。社会的関心が薄れ、海外に出ることさえ嫌う内向きの若者が増えているご時世である。そんな時代だからこそ、1世紀余も前に、留学先で出会った少女と相愛になりながら、家を守ろうとする母親の一途さに折れた青年鴎外の純情が、新鮮な驚きをもって迎えられることを期待したい。